本稿は「LGBTやマイノリティが、セクシャルを公にして、ネット上で政経論を語れるか?」がテーマです。
最初に申し上げますが、私はゲイです。LGBT関係の話題がお嫌いな方は、見ないでください。
しかしふと気がついたのですが、LGBTには政治イデオロギーとして、ほとんどリベラルしか選択肢はないように、一般的には考えられます。
まずはリベラル・ナショナリズムという概念を解説し、LGBTでもナショナリズムというイデオロギーは選択しうる、とお示しします。
その上で、統計や私自身の体験なども踏まえ、「LGBTが政経論をネット上で語れるか?」を議論してみたいと思います。
LGBTがリベラルしか選択肢がない?
LGBTの選択できるイデオロギーはリベラルしかない、というのが一般的な理解です。
保守思想の根幹のナショナリズム=共同体主義は、LGBTにとって難しいものだからです。
共同体の最小単位は家族、家庭といわれます。LGBTには家庭を持つ人は多くありません。もちろん、バイセクシャルは持てるでしょうから、この際はLGTを念頭に置いているとしてください。
上記のように一般論では理解されていますし、間違ってはいません。
リベラル・ナショナリズムという議論
リベラル・ナショナリズムとは? を解説する前に、リベラリズムとナショナリズムの定義を解説します。
リベラリズムないしリベラルとは日本語で、自由主義(的)です。
ナショナリズムとはしばしば国家主義と訳され「危ないもの」と考えられますが、国”家”というように、家族のような共同体を国家に当てはめるものです。
ですので、ナショナリズム=共同体主義と表現するほうが適切です。
ではリベラリズムの自由とはなにか? 無政府的自由や無規制な自由は、弱肉強食になります。北斗の拳の「ヒャッハー」な世界です。
したがって自由とは規制やルールの中に存在する、と考えるのがリベラル・ナショナリズムの議論です。
では規制やルールを決めるのは誰か? 国家であり民主制です。とすると自由主義的共同体主義、つまりリベラル・ナショナリズムという考え方が生まれるのです。
上記のように考えますと、LGBTにとって共同体主義は、必ずしも悪いものではないでしょう。なぜならLGBTは少数者ですから、無規制な自由世界では弱者になるわけです。
つまり国家という共同体の成員である、ということが安全装置になっているのです。
※もっともイスラム教の国家みたいな、異なる国もありますが。
LGBTもナショナリズムという立場をとり得るのです。1つの選択肢として明示しておきたく、解説しました。
選択肢があるということは、LGBTも自由に政治的な思想信条が決定できるという話です。政治経済論をLGBTが語る”意味”が出てくると思います。
政治経済ブログの特殊性
政治経済ブログでは、私のようにSEOやアフィリエイトを重視しているブロガーはあまりいません。なぜか? 読んでもらい、自己の主張を広めたいというのが、政治経済ブロガーの動機だからです。
※だったらSEOしっかりしろよ! という話ですが……。
多くの有名ブロガーは「読者に役に立つ記事を書いたら、PVが増える」と説明します。私も同意します。
しかし……政治経済ブログではPVが軽視されることがしばしば起こります。なぜなら、ブログ主は自分の主張の正当性を”強烈に”信じているからです。
余談ですが、ゆえにPVという評価が得られないと、「社会が悪い!」という認知不協和に陥りがちです。
政治や経済は人が営むもの
政治や経済は人が営むものです。私は男女の考え方の差異もある、と認識しています。脳科学によれば女性はコミュニケーションが上手い傾向にあり、男性は要件のみをいう傾向にあるのも、1つの例でしょう。
文章1つとっても、「男性的・女性的」となんとなく感じるのではないでしょうか?
LGBTにとって自己のセクシャリティは、非常に大きな主観的要素となります。政治や経済が人の営むものである以上、そして主観なしには語れない以上、セクシャリティを明らかにしておくことは、一定の意義が存在すると思います。
――特に新潮45の杉田水脈さん、小川榮太郎さんなどの記事(注1)は、自分のセクシャリティを隠して語ることは、LGBTにとってはなかなか困難でしょう。
注1:「痴漢も生きづらい」小川榮太郎の破綻した論考を載せた「新潮45」 – wezzy|ウェジー
ネット上のホモフォビアの存在
私の経験談から申し上げますと、現実でカミングアウトしても、罵られることは少ないです。カミングアウトした相手が、戸惑うことは多いですが。
しかし、ネット上ではそうもいきません。
ネット上、ブログでのカミングアウトは、知らない人にまで、自分がLGBTだと知られます。
有名ブロガー、数十万PV/月のブロガーのブログでは、コメント欄を見かけません。これはアンチがうざいから、というのが理由でしょう。
当ブログはたかだか、3~4万PV/月程度のブログです。その規模でも、私にはアンチがたくさんいます(笑)主にゲイだという理由で、誹謗中傷はあります。
ホモフォビア(同性愛恐怖)は、ネット上ではその態度が顕著になります。画面のその先に、1人の人格があるということを想像できないのでしょう。
参照:
ホモフォビア – Wikipedia
ホモフォビアをもつ人も、被害者?|ライ麦畑のがけ近く
上記のライ麦畑さんの考察が非常に面白く、参考になりました。ある実験によると、異性愛者を自認しているが、心理実験では同性愛的傾向を示す人ほど、ホモフォビア的傾向を示すらしいです。
異性愛者と自認するが、心理テストにおいて同性に強く魅力を感じていると出る人々は、ゲイやレズビアンに脅威を感じている可能性がある。なぜなら、自らの中にある似た性向を思い出させられるからである。
ホモフォビアをもつ人も、被害者?|ライ麦畑のがけ近く
Is Some Homophobia Self-phobia? より(翻訳はみんなすばる)
先程書きました通り、政治経済ブログのブログ主は「自己の正当性への強烈な思い込み」がある場合が多く、したがってホモフォビア的行動を取る場合も「ゲイであるあいつが悪い」とする傾向にあります。
そんな非常識な人は少数ではありますが、確実に存在することも確かです。
政治経済ブログ、LGBTはカミングアウトしたほうが良いのか、しないほうが良いのか
特定の答えはありませんが、私はしております。そのうえで、自身のセクシャリティを公開しながらブログを続けるメリットとデメリットを公開します。
メリットその1 覚えてもらいやすい
物珍しいので、覚えてもらいやすいというのはあります。一種のブランディングになっている面は、否定しきれません。
メリットその2 自己のアイディンティティを誤魔化さなくて済む
男性には「自分は男だ」というアイディンティティがあるように――意識しないでしょうが――、LGBTも「自身はLGBTだ」というアイディンティティから逃げられません。
NHKの調査だったと思いますが、LGBTの悩みの中に、LGBTを隠して生活していると現実が空虚になるというような物もありました。
嘘をつかなくて済む、誤魔化さなくて済むというメリットはあります。
デメリットその1 ホモフォビアの存在
PVが上がればアンチが増える、というのはしょうがない面もあります。しかし当ブログはまだ、たかだか3~4万PV/月の弱小ブログです。これで今のアンチの数ですから、PVが伸びたときにはどうなるか? あまり想像はしたくありません。
デメリットその2 単純な心理的恐怖
私はゲイだと周囲にオープンにしたのは21歳の頃です。それから17年が経ちますが、ネットでオープンにするのは心理的に、怖いです。実害は、誹謗中傷くらいですが。
LGBTが政治経済論をブログで書く場合、カミングアウトしておいたほうが良いのか? しないほうが良いのか?
私がいうのもなんですが、現状であまりお薦めはできません。実名、ハンドルネームにかかわらずです。
もちろん、選ぶのはその人自身です。
おそらくPVが上がれば上がるほど、精神衛生上はよろしくないでしょう。
ただ1人のゲイとしては、LGBTと公言して生きにくくない社会になってほしいと思っております。
そのためには、精神衛生上の問題を知りつつ、ホモフォビアの存在も覚悟しつつ、オープンにする人間も、LGBTを認知してもらうためには必要だろうと思います。
なぜなら、人は知らないことに恐怖するのですから。
>おそらくPVが上がれば上がるほど、精神衛生上はよろしくないでしょう。
>ただ1人のゲイとしては、LGBTと公言して生きにくくない社会になってほしいと思っております。
>そのためには、精神衛生上の問題を知りつつ、ホモフォビアの存在も覚悟しつつ、オープンにする人間も、LGBTを認知してもらうためには必要だろうと思います。
>なぜなら、人は知らないことに恐怖するのですから。
こういうのを『忠義の心』と言うのでしょう。
いえいえ、単にPVはほしいけど、誤魔化すのも面倒くさい、というものぐさなだけです(笑)
カミングアウトする何よりのメリットは、論敵がつっこんでくる弱みに対して、先にそれに関して公表・説明することにより無効化して、尚且つ逆につけこんでくる相手の印象を悪くできることだと思います。
私もブログで「ろくでなし」と先に公表しており、まぁ実際若い頃はろくなことをしてなくて、そこをつっこんでくる相手がいたら、「最初から言ってるでしょ?」と牽制するためです。
別に私は前科もないし鑑別所上がりでもありませんけど、そういった人たちが社会に参加できるようにしたいし、いわば「ろくでなし」を包摂して役割を与えることこそ社会だと思ってます。
「ろくでなし」の語源は「陸でなし」つまりは平でなく平均化されてないことを意味しており、TPP参加や農協改革を黙認したり生活保護受給者やシングルマザーを叩くような「人でなし」のグローバリストとは真逆で異なります。
カミングアウトしていないと大衆なんてその時のムードでもりあがり、丁寧に説明してもその時には感心がなくなり、悪い印象だけ残ってしまいます。そこですね。
私も若い頃は、あまりろくでもなかったかもです(笑)もちろん、前科はありませんが。
なるほど、おっしゃるとおりかもしれませんね。
ある種、最初から正直に告知しておいたほうが、政治経済系ブログでは良い結果をもたらすのかもしれません。
※私はもはや、論敵や議論には疲れている感がありますが(汗)
>ですので、ナショナリズム=共同体主義と表現するほうが適切です。
仰る通りです。ところが、サヨクorリベラル陣営ではナショナリズム=国家主義(この場合、時の為政者=国家権力中心主義のこと)と捉えており、あるいは全体主義や権威主義と同一視して危険視したりする風潮がいまだにあります。
やはり、「ナショナリズム=共同体主義=国民主義」と明確に定義し、国民国家においてはナショナリズムはごく当然のイデオロギーであるといった認識が日本人に広まるべきです。逆に言えば、ナショナリズムの重要性がわからないから、今までネオリベやグローバリズムの危険性に全く気づかず、無防備状態が続いてきたと言えるわけです。
>LGBTにとって共同体主義は、必ずしも悪いものではないでしょう。なぜならLGBTは少数者ですから、無規制な自由世界では弱者になるわけです。つまり国家という共同体の成員である、ということが安全装置になっているのです。
仰る通り、確かに完全自由放任的なリベラリズムの世界では、LGBTだけでなく社会的少数派は間違いなく疎外され、さらには迫害・弾圧されるでしょう。逆に少数派でも、国家共同体の成員として位置づけられるならば、彼らの基本的人権も保障されることになります。
>LGBTの選択できるイデオロギーはリベラルしかない、というのが一般的な理解です。
少数者の保護にとってもナショナリズムの理念は重要であるにもかかわらず、このような一般的な理解が見られる理由は、やはり、「LGBTが国家共同体の最小単位である家族制度の維持と相容れない側面がある」からです。
欧米では同性カップルが社会的にだいぶ認知されてきているようですが、もしこれが少数者の段階にとどまらず、そうした風潮がさらに広まって、同性婚が飛躍的に増えたとしたらどうなるでしょうか?同性婚カップルで育てられた子供(養子?)は果たして普通の家庭(つまり異性のカップル)の子供と比べ、その精神形成の過程において何か問題はないのか?さらに言えば、同性婚が飛躍的に増加すれば、(生物学的に)確実に人口が減少し、遠からず共同体社会=国民国家は消滅します。そうした懸念があるからこそ、LGBTは保守主義ないしナショナリズムの理念と相性が良くないと言えそうです。
要するに、LGBTをはじめとする社会的少数者の人権は最大限に保護されるべきであるが、もし、万が一、彼らがマイノリティーからマジョリティーに近づくほど増加すれば、共同体社会=国民国家の消滅という由々しき事態に至るということです。
家族制度を考えると、LGBTとの相性は悪いのはそのとおりなんですよね。
家族制度との兼ね合いは欧米でも議論されていて、「伝統的な家族制度」とは別に「LGBTのパートナーシップを認める制度の創設」という妥協的解決策になってます。