政治の議論では「右派」「保守」「左派」「リベラル」などはよく使用される言葉です。でも本当に皆さん、その言葉の意味を知っていますか?
特にリベラルという言葉は、間違って使用されることが非常に多いと思います。
「リベラルじゃない民主主義は存在しうるか?」
上記の問いにさっと答えられないのは、リベラルという言葉の意味を知らないからかもしれません。
リベラルとは日本語で自由主義の意
リベラリズムとは日本語訳すると「自由主義」です。ですので「リベラル派」とは「自由主義者」と同義になるでしょう。
リベラルないしリベラル派とは、決して「左派ないし左翼」という意味ではないのです。リベラル保守だって当然、定義上は存在しうるのです。
またナショナリズムを国民意識とするなら、リベラリズムとナショナリズムは並立しうるのです。
リベラルや自由主義の「自由」とは何か
自由とは何でしょうか? 自由は哲学上でさまざまに論じられています。ジョン・ロック、ルソー、ミルetc……。
- 積極的自由(~への自由)
- 消極的自由(~からの自由)
自由の議論は最初、消極的自由がメインでした。つまり「何かに縛られない自由」です。しかし自由放任が究極になる消極的自由では、かえって誰かの自由が阻害されてしまうということが起こります。
経済を自由放任に任せれば、市場は弱肉強食になり弱者の自由が阻害されます。
また「何ものにも束縛されない自由」とは、人間を孤独にします。よって人間は自由放任に任せられると、個人は自由を放棄することが往々にあります。
そこで積極的自由が、重要であるというような議論が展開されます。
上記はエーリッヒ・フロムの議論ですが、アイザイア・バーリンはまた異なった議論をしています。バーリンは消極的自由の重要性を説いていたりします。
知ってほしいのは「リベラルの自由には2種類あり、どちらが優先されるべきかはまだ決着していない」ということです。
消極的自由を経済的に行使する新自由主義と、リベラリズムの違い
新自由主義は消極的自由を重視します。だからこそ小さな政府や、市場競争を主張するのです。現代のリベラリズムはどちらかと言えば、積極的自由を重視します。
例えば欧州の左派は、新自由主義とグローバリズムに大いに警戒しています。新自由主義やグローバリズムは、消極的自由の推進であるからです。
リベラルと左派の違いは自由主義 or 革新主義
日本では左派のことを、リベラルと呼称することが多いようです。しかし定義的には「リベラルではない左派」だって存在します。
右派(右翼)、左派(左翼)というのはもともと、フランス革命で翼状の国会の席のどちら側に座ったかが語源です。つまり左側は革新、右側は保守というわけです。
では革新は常に、リベラルと自由を必要とするでしょうか? 自由主義的でない、全体主義的な革新だって存在します。共産主義革命、ソ連などはその典型例でしょう。
つまり「リベラルじゃない革新左派」だってありえますし、「リベラルな保守」だって存在しうるのです。
リベラルじゃない民主主義は存在しない
では「リベラルではない民主主義」は、存在しうるでしょうか? 定義上、もし存在したとしたら「それは民主主義ではない別のなにか」です。つまりリベラルではない民主主義は、存在しません。民主主義とはすべての場合で、リベラルであるのです。
なぜか? 民主主義という仕組みの前提条件が、自由主義だからです。
多様性を絶対視する人が、多様性を否定する多様性を肯定できないという笑い話
よくある矛盾のお話です。「多様性は大事!」と、熱心に主張するAさんがいました。その人にBさんが「多様性は大事じゃない! むしろ多様性絶対主義は否定されるべきだ!」と意見をぶつけたとします。
さてAさんはBさんの「多様性を否定するという多様性」を、肯定できるでしょうか。
これは積極的自由と消極的自由の議論でも、同じことがいわれています。
アイザイア・バーリンは自由を、積極的自由と消極的自由の2種類に定義し直しました。そのうえで、消極的自由(なにかに束縛されない自由)が、より重要だと説きました。
では「消極的自由を否定する、消極的自由」も肯定されるべきでしょうか? という問いをぶつけられ、沈黙せざるを得ませんでした。もし「消極的自由を守るべきだ!」とするのなら、「消極的自由を否定する人たちの自由を、阻害すること」になります。
自由という概念の議論は、かくもややこしいのです。しかし大切な議論でもあります。リベラルの意味をしっかりと知って、議論をより深いものにしていきましょう。