ネオリベとは何か。何をもたらし、どのような弊害があるのか。そんな疑問に対して今回の記事を書きました。
ネオリベとは日本にデフレをもたらし、共同体や文化を破壊し、1%対99%の世界を現出させる経済イデオロギーです。ネオリベの作用や歴史についてわかりやすく解説します。
くわえて、日本がネオリベと決別することができるのか議論します。結論は「相当ひどいところまでいかないと決別できない」です。なぜなら、ネオリベを支持し続けているのはほかならぬ民意であり、国民なのですから。
ネオリベとは
ネオリベとは新自由主義の略語です。新自由主義は英語でNeoliberalism(ネオリベラリズム)です。ネオリベラリズムを略して、日本ではネオリベと呼ぶことが多くなりました。
ネオリベとは市場競争を重視し、小さな政府を支持する経済思想です。積極的自由より消極的自由を重視します。
消極的自由とは「○○からの自由」と表現されます。積極的自由とは「○○への自由」です。
政府の規制「からの自由」などをネオリベは重要視します。
自由な市場競争は企業や人を効率主義・合理主義にします。効率的で合理的でないと市場競争に勝てないからです。
金銭や利潤だけが行動の判断基準になります。
これらの判断基準は伝統や文化、共同体といった自生的な秩序を破壊します。定食屋の非効率的な――しかし、美味しい――焼き魚定食より、フランチャイズの効率的な牛丼やハンバーガーが幅をきかせます。
ネオリベは短期主義です。効率化や合理化は短期的な視点から行われます。そして、長期的な視点で必要な安全保障をネオリベは軽視する傾向にあります。
安全保障は冗長性が必要で効率的でなく、短期的な視点からは非合理的だからです。
ネオリベは市場競争とともに多国籍企業、大資本、大企業を優遇します。個人と大企業を同等に扱おうとするのです。
個人と大企業ではスタートラインが異なります。したがって、平等に扱えばかえって不平等になります。
このような特徴をネオリベは備えています。
ネオリベの歴史
ネオリベが台頭したのは1970年代です。ミルトン・フリードマンを祖とする新自由主義経済学の台頭が発端でした。
1970年代はオイルショックがあり、アメリカやイギリスは深刻なスタグフレーションに陥ります。スタグフレーションとはコストプッシュインフレと不景気の合わせ技です。
インフレなのに、不景気で失業率が上がる状態がスタグフレーションです。
それまで採用されていたケインズ経済学の権威は地に落ち、代わりに台頭してきたのがネオリベ(新自由主義)経済学でした。
ネオリベ経済学は福祉国家を道徳的に批判しました。「国家に甘えるな! 国民は痛みに耐えて!」と、どこかで聞いたような台詞を吐きます。
こうしてアメリカ、イギリスでネオリベが経済政策として採用され、世界に広まっていきます。
日本にネオリベが輸入されたのは1990年代です。2000年代初頭には小泉内閣がネオリベ的な構造改革を行い本格化しました。
デフレとネオリベ
日本にネオリベが入ってきたのは1990年で、デフレは1998年からです。この一致は偶然でしょうか? 1997年に消費増税され、日本は本格的なデフレに突入しました。
消費税と法人税を参照すると、消費増税された分だけ法人減税されています。消費税と法人税はトレードされたのです。
こうした大企業優遇はネオリベの大きな特徴です。
また、1997年から日本は緊縮財政を行ってきました。新規国債発行を絞り、必要な需要創出を政府が怠りました。
この方向性はネオリベが求める小さな政府です。
さらに、規制緩和や構造改革で自由競争を激化させました。市場競争の激化は低価格競争につながりデフレ圧力となります。
ここでもまた、ネオリベ的政策がデフレに日本を追い込みました。
日本をデフレ化させたものの正体はネオリベだったのです。
自己責任とネオリベ
2004年に3人の若者がイラクで人質になりました。このとき政府関係者が「この事態は自己責任」と発言し、大きな波紋を呼びました。
自己責任という言葉はこの事件でポピュラーになりました。
ネオリベと自己責任論は大いに関係があります。ネオリベは市場競争、自由競争を最重要視します。競争で負けることは努力不足の結果であり、自己責任と片付けられます。
こうして、ありとあらゆる選択・状況をネオリベは自己責任とします。
さらに、小さな政府とは責任も権限も小さくなります。小さな政府を目指すことは、責任をパージすることを示します。
パージされた責任は自己責任として個人に還元されます。
くわえて「人のせいにするな!」という言説は道徳的に一定の重みがあります。
ネオリベは多くの人に自己責任論を繰り返し学習させようとします。
2004年のイラク人質事件、2012年の生活保護バッシングなどがその典型です。
自民党や維新の会とネオリベ
1990年代に政治的混乱があったものの、ネオリベを持ち込んだのは自民党です。2000年代初頭には小泉内閣が成立し、ネオリベ的改革が次々と断行されました。
労働者派遣法の改正などはその典型例です。
ネオリベ的改革は効率化・合理化を目指します。小さな政府にするためには効率化し、業務をスリム化しなければならないからです。
ネオリベ的な政党は改革を掲げます。構造改革、郵政改革、働き方改革などはその一例です。
自民党は大企業優遇で知られています。
消費税などでも大企業を優遇してデフレを放置しました。
自民党よりさらに過激なネオリベ政党も出てきました。維新の会です。
大阪都構想や道州制など、維新の会は効率化・合理化による小さな政府を推し進めようとしています。規制緩和による市場競争の激化にも積極的です。
自民党が大きくネオリベ化し、維新の会がさらに過激なネオリベになった背景には民意があります。日本の民意はこの数十年、ずっとネオリベ的改革を支持してきました。
ネオリベに染まり続けるとどうなるか
このままネオリベが続くとどうなるのでしょうか。
まず、極端な自己責任社会が形成されていきます。
自己責任論は社会問題を個人に矮小化します。極端な自己責任社会とは、社会問題を個人に矮小化して何一つ解決しない社会を指します。
貧困問題も自己責任。シングルマザーや貧困女子、生活保護、失業。すべて自己責任という社会が訪れるかもしれません。
勝ち組と負け組も一層、明確化するでしょう。上位1%の超絶富裕層、上位10%のそこそこ富裕層、そして残り90%の低所得者というディストピアになる可能性だってあります。
世界的にネオリベが蔓延し、中流層が脱落しています。
日本はまだ持ちこたえている方ですが、いつまで持ちこたえられるかわかりません。
勝ち組と負け組が明確化すると、富裕層と低所得層でディスコミュニケーションが起きます。社会が断絶して連帯を失います。
連帯を失うと民主主義は正常に働きません。なぜなら、民主主義とはナショナリズムを基盤としているからです。
ナショナリズムとは国民意識です。国民意識がないのに民主主義が働くでしょうか? 否です。
こうして、民主主義は――今でもその兆候はありますが――人気取りゲームに陥ります。
ネオリベとの決別は可能か
日本は1990年代からネオリベを支持し続けてきました。その結果、かつての昭和の福祉国家は見る影もありません。一億層中流など夢幻のごとくなり。
日本がネオリベと決別できる可能性はあります。コロナ禍でわずかながら、大きな政府に政策が傾いたからです。コロナ禍が終わればまた元の木阿弥かもしれませんが……。
それはさておき。
個人がネオリベと決別することは可能でしょうか? 筆者は不可能だと思います。
人間は環境に左右されます。ネオリベがこれだけ蔓延っている世の中で、ネオリベと決別するのはまず無理です。どうしてもネオリベ的な生き方も必要になるでしょう。
では、政治はネオリベと決別できるでしょうか。民主主義国で政治がネオリベと決別するには多くの民意が必要です。その民意の源である個人は、ネオリベとの決別が不可能なところにまで来ています。
したがって、政治的にネオリベと決別するのもかなり困難です。
多くの人がネオリベの弊害を目の当たりにするまで、ネオリベ的な政策は続いていく可能性が高いでしょう。
まとめ
1960年から1980年、1980年から2010年の世界の経済成長を比べたとき、ネオリベが蔓延していなかった前者の方が高い経済成長率なのだそうです。
ネオリベは日本にデフレをもたらしただけでなく、世界経済の成長も停滞させました。
世界では格差や富の偏在が問題化しています。日本でも問題化するのは時間の問題――ではなく、すでに問題化し始めています。
ネオリベの恐ろしさをまずは知ることが必要です。