先日、中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏の記事紹介しました。
上記で紹介したのは第1~2回の記事です。第3~4回の記事が出ていましたので、ポイントを解説しつつ紹介します。
日本トップレベルの知性である3人が語る、コロナ禍における現実と現状とは? 加えて記事解説の後には、筆者の個人的な問題提起も記載します。
記事概要
内容が非常に面白いので、ぜひあなたも読んでほしいところです。
全体的な内容を要約は、以下です。
- 藤井聡氏の言説の矛盾が大きくなっている
- 藤井聡氏だけに限らず、コロナ禍で世界観が崩れた人たちの病状
- 現実否認することで、自分や世界観を保とうとしている
- しかし現実否認して、問題が解決することはない
- 解決したいのに解決できないので、魂が叫び続けて暴走状態になる。感情と論理の区別が付かなくなる。これが現状ではないか
詳しくは記事を読んでもらうとして、要点だけさらっと解説します。
頭真っ白と無知は力
藤井聡氏はTwitterであるデータを提示して「皆さん、まず頭を真っ白にしてコレをよーく見て下さい」と呼びかけました。
対して中野剛志氏は「観察の理論依存性(理論負荷性)と言って、頭真っ白だと何も読み取れません」と指摘。加えて頭を真っ白にすることは、全体主義への第一歩とまで言及しています。
ジョージ・オーウェルの小説「1984年」での標語「無知は力」に通底すると、佐藤建志氏も指摘しています。
しかしこの議論は、筆者にはやや無理があるように思えます。「頭を真っ白にして」は「先入観なく」と読み取れるからです。
言論人の「ヤンキー体質」
「コロナ恐れるに足らず!」「コロナは全く怖くない!」という意見も、結構あるようです。
例えば「改めて言う!! 新型コロナ《第2波》は来ない【上久保靖彦/小川榮太郎】」では、コロナは全く恐れる必要がないと発信されています。
こういった動きに中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏の3名は「言論人のヤンキー体質」と批判しています。
3名によれば保守思想では、慎重に万全を期すくらいがちょうど良い。ところが日本の”いわゆる”保守たちは、コロナに勇敢で恐れ知らずに「怖くない」と言う。
これを「言論人のヤンキー体質」として、日本で保守思想は根付かなかったとしています。
「正義感は偽善、誠実は欺瞞」
藤井さんの名誉のために言っておきますが、彼はある意味、誠実なんですよ。「政府がロクな財政出動をしない」という前提条件のもと、感染被害と経済被害の双方をできるだけ抑えこむ「落としどころ」を懸命にさぐろうとしている。
西浦批判の繰り返しこそ「全体主義への大衆煽動」【中野剛志×佐藤健志×適菜 収:第3回】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)
上記のように佐藤建志氏は発言しています。
しかし「財政出動をしない」という前提条件から、適切な対応は導き出せません。答えのない設問に回答しようとすれば、泥沼にはまります。
「正義感は偽善、誠実は欺瞞」はシェイクスピアの、マクベスの台詞だそうです。
答えのない設問――どうにもならない――を認められないのが、正義感。
答えのない設問に答えを出そうとするのが、誠実さ。
これらは「答えが出ないという現実の否認」とも受け取れます。なるほど、佐藤建志氏が藤井聡氏の一連の言説を批判するわけです。
現実否認と不自由への不満
中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏の3名のスタンスは「コロナ禍に慎重に対応するべし、よって自粛+財政出動」です。
現在コロナ禍で、毎日10人強が亡くなっています。医療崩壊を起こさないためにも、統制が必要との考え方です。緊急事態宣言のダメージは、財政出動で最小限にとの主張です。
このためには国家レベルでの行動変容と、ナショナリズムが必要と説きます。
この議論の奥底には「コロナ脅威論以外の解釈は、現実否認」という前提が横たわっています。なぜなら未知のものに、慎重に対応するべきが保守思想だからです。
確かにコロナへの対応で「やってみました! 失敗しました!」じゃ、目も当てられません。
よってパンデミックの不自由さも、あえて甘受するべきと3名は説きます。
筆者は「不自由でもいいけど、漫画喫茶だけは営業してほしい」と思います。半分は、冗談です。
保守思想を知るなら、中野剛志氏の「保守とは何だろうか」がおすすめです。
加えて佐藤建志氏翻訳の、フランス革命の省察もどうぞ。
読後に出てきたさまざまな問題
まず読後に考えたこと。「これはどう考えたらいいんやろ?」「ああ、ここはよくわからんな」などです。
コロナ禍・大阪都構想・構造改革に通底する病
「とりあえずやってみよう!」「大丈夫、ダメなら戻す」という傾向が、コロナ禍でも見られます。「コロナ怖くない論」は、その代表例かもしれません。
大阪都構想や規制緩和・構造改革などの、改革病に通じる面があります。
加えて「経済優先」と「人命など経済以外の価値優先」の対比にも見えます。もちろん大阪都構想や構造改革は、経済的にも役立たずですがそれは脇に置きます。
現実主義か現実否認か
佐藤建志氏は藤井聡氏の言説を「政府が財政出動しない前提で、落とし所を見つけようとしている」と論じました。
日本政府がさらなる大規模な財政出動をするかどうか? しないだろうなぁ……と考えるのは一般的です。
この見解に則るのは、現実主義なのか現実否認なのか?
自粛+財政出動は、理想でしょう。しかし実現する見込みはほとんどない、と言って良い。人命がかかっている以上、妥協してでもマシな方策を示すのは現実否認でしょうか?
こういった疑問が、筆者のなかで湧き起こりました。
藤井聡氏の「半自粛+経済優先」は、必ずしも現実否認と言えないかもしれませんよね。
人間どこかしら認知的不協和
人間はどこかしら、矛盾を抱えています。そして基本的に、認知不協和的な生き物だと筆者は考えています。
矛盾を少しでも少なくするか、矛盾を矛盾として受け止められるのが成熟と言えます。現実を直視する、とも言います。
矛盾を解決したくて、あれこれと言い訳を探すのが未熟、すなわち現実否認でしょう。
「自分は認知的不協和を抱えていない」と思うことも、現実逃避なのかもしれません。なぜなら誰しも、矛盾くらいはあるからです。
個人的かつ率直な感想
正直なところ、記事の内容が広範に及んでおり、読んでいる筆者の感想や疑問、問題点もまとめきれません。
個人的には中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏の見解と、藤井聡氏の言説はトロッコ問題のように感じます。
トロッコ問題とは、おおよそ以下のようなものです。
暴走トロッコが走ってきました。あなたは線路の、切り替え地点にいます。先は二股になっており、切り替えなければ5人が死にます。線路を切り替えれば、1人が死にます。
あなたは線路を切り替えて1人死亡を選ぶか、それとも切り替えずに5人死亡を選ぶかどちら?
これだけなら、今回の3名と藤井聡氏の話には当てはまりません。トロッコ問題には、派生した先があります。
重い病気の5名がいます。1人の健康な人から内臓などの移植をすれば、5人は助かります。ただし健康な1人は死亡します。
1人を殺して、5人を助けるべきでしょうか?
どちらも「5人を見殺しにするか、自分の行動で5人を救って1人を殺すか」です。しかし前者のトロッコ問題では答えが分かれるのに、後者で「健康な人を殺して、5人を救うべき!」という人はいないでしょう。
いたらサイコパスか何かじゃないですかね(笑)
どうしてこれが、中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏と藤井聡氏の話になるのか。
コロナを「災害」と捉えるか、「病気」と捉えるかの違いです。
毎日10人強も亡くなる災害なら、非常に恐ろしい話です。1年で3~4000人も亡くなるのですから。
一方で1日10人が亡くなる「病気」と捉えるなら、しょうがないとなります。インフルエンザだって、1年で3000人が亡くなります。
同じ3000人が1年で亡くなるとしても、災害なら「恐ろしい」、病気なら「仕方ない」と捉え方が変わります。
先ほどのトロッコ問題と似てますよね。
トロッコの暴走、つまり災害の場合は5人が助けられるかもしれない。しかし5人が病気の場合は、仕方ないと諦めるのが一般的です。
まとめ
果てなくダラダラと、書き連ねてしまいました。ここまで散漫な記事は、久しぶりではないでしょうか。
問題点の整理が仕切れず、内容が絞れませんでした。それだけ中野剛志氏、佐藤建志氏、適菜収氏の記事が広範すぎなんですよ。
現時点で筆者は、コロナへの対応で何が正しい! と主張するつもりはありません。緊急事態宣言をしなくても現在、感染者数が減少する謎現象も起きています。
これ、何でですかね。
このまま感染者数が減少するなら、緊急事態宣言や強制的な自粛は必要ないことになります。
現時点の筆者は「わからないことが、わかる」だけ。皆さんはどうですか?
なお、以下は筆者が現在気になっている本。もし読んだ人がいたら、感想をいただけるとありがたいです。
>しかしこの議論は、筆者にはやや無理があるように思えます。「頭を真っ白にして」は「先入観なく」と読み取れるからです。
確かにその通りです。
>よってパンデミックの不自由さも、あえて甘受するべきと3名は説きます。
これはお三方の意見が正しい。何しろ、パンデミックはいわば戦時ないしは準戦時とも呼ぶべき状況なので、「酒場に行けない」だの「ライブに行けない」だの「釣りができない」だのという程度の不自由さは甘受すべきです。もちろん、(法的強制であろうと、非強制的な同調圧力であろうと)外出制限等によってとばっちりを受ける事業者に対しては政府が粗利補償などの財政出動を本来は当然行うべき事ですが。
>もちろん大阪都構想や構造改革は、経済的にも役立たずですがそれは脇に置きます。
まあ、脇に置けるような些細な問題では絶対ありませんが、今や時すでに遅し。維新の連中のプロパガンダを鵜呑みにする情弱愚民の群れが賛成票を投じた結果、大阪市は解体。市民生活はどこまで悲惨な境遇に陥るか?(大阪市民たちの)自業自得とはいえ、大嘘つきのならず者どもの術中に見事はまってしまったのは、誠に口惜しい限り。
>自粛+財政出動は、理想でしょう。しかし実現する見込みはほとんどない、と言って良い。人命がかかっている以上、妥協してでもマシな方策を示すのは現実否認でしょうか?
藤井聡氏の「半自粛+経済優先」は、必ずしも現実否認と言えないかもしれませんよね。
ただ、藤井氏&宮沢氏の主張には大いに疑問があります。というのも、彼らが当初主張していた「集団免疫戦略」から「半自粛+経済優先」へと主張を転換させた合理的な根拠はどこにあるのか?(逆に言えば、両者の整合性はどうなるのか?)鼎談の第4回で中野剛志さんが指摘している通りです。
>同じ3000人が1年で亡くなるとしても、災害なら「恐ろしい」、病気なら「仕方ない」と捉え方が変わります。
いや、今回のコロナ禍を、季節性インフルエンザや癌、心臓病、あるいは脳卒中のような単なる病気と同列に捉えるべきではない。日本社会のみならず世界中、つまり全人類が久しく経験しなかったほどの「未曽有の大災害」と捉えるべきです。ゆえに、欧米の民主主義国家でも、程度の差こそあれ、ロックダウンという戦時体制レベルともいうべき措置に踏み切ったわけです。
それから、7/6付の表現者クライテリオンのメルマガ
「今、「自粛派」になってしまっているのは、コロナに壊される「社交」を持たない人々なのだと思います。」を
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200706/
を読んだとき、唖然としました。これは明らかに、「自粛派は非社交的な人間たちである」という独断と偏見に満ちたレッテル張り。これが日本でも数少ない良識ある学者の正論なのかと。
今回の一連の鼎談(特に中野氏)による藤井氏への徹底批判の内容については、読者として冷静かつ深刻に受け止めるべきですが、ただ、これをもって「藤井先生はもはや言論人として終わった」等々の、藤井氏のこれまでの主張・持論・見識を否定する言動は明らかに論外、単純バカというほかはありません。どっかのブログのコメントかTwitterに書いてありましたが。
>それから、7/6付の表現者クライテリオンのメルマガ
あ~、これはマズかったらしいですね。藤井先生もかなり、空回りしてる気がします。
純粋で熱い人ですけど、空回りしちゃうとマズい部分が出ちゃいますよね。
>ただ、これをもって「藤井先生はもはや言論人として終わった」等々の、藤井氏のこれまでの主張・持論・見識を否定する言動は明らかに論外、単純バカというほかはありません。
これは三橋貴明さんのスキャンダルでも、同じことがありましたね~。
※もはやスキャンダルの内容を覚えてませんが(笑)
はてさて……私は中野剛志さんも、藤井聡さんも好きなんですけど。どうなるんでしょうね。
まあ、仮に藤井先生の言論生活がここで終わったとしても、藤井先生が伝えたかった思想、ようは経世済民は、もう多くの人に受け継がれていますよね。(ヤンさんもその一人ではないでしょうか)
まあ、完璧な人間なんて誰もいませんからね・・。
個人的に擁護をするとすれば、藤井先生はこの自粛によって苦しんだ居酒屋や外食産業や、観光業や、そういった人々の不条理な苦しみを人一倍感じやすい人だったのかもしれません・・。
(もしかしたら)藤井先生行きつけの飲み屋が何件もあって、それがコロナ禍で廃業しそうだとか、廃業しただとかいう話になれば、正義感の強い人ならそれら居酒屋の営業のために、自粛は無意味といって、この世間のムードをどうにかしようともするかもしれません・・。
だから・・、
>「正義感は偽善、誠実は欺瞞」はシェイクスピアの、マクベスの台詞だそうです。
>答えのない設問――どうにもならない――を認められないのが、正義感。
>答えのない設問に答えを出そうとするのが、誠実さ。
このようになったのではないでしょうか・・。
このようなことは、本来なら政府の財政出動で多少はもう少し、なんとかなる“はず”だったことではあるんですが、現実は・・・・。
.
藤井先生も、一度吐き出したセリフを全てなかったことにはプライドの問題として難しいでしょうけど・・、そこは柔軟に、なかったことという感じでうまいこと脇に置いて、大阪都構想阻止や、積極財政実現にのためにまたがんばって頂きたいですね。
(なかったことというのは、この先、積極的にこの件に触れないということです)
個人的には懇親会などで人柄を知っているだけに、ここで言論活動を終えてほしくないとは思います。
人間、完璧じゃないので、おっしゃるとおり「なかったことという感じでうまいこと脇に置いて」でいいと思うのですよね。
個人的に思うのは、第3波は来るのかこないのか、です。
コロナ禍は夏になればインフル同様おさまってくるんじゃないかと当初は言われていました。
正直に申し上げると、私自身も内心それを期待していましたし、内心ではある程度、このコロナ騒ぎはみなの努力の結果、この先は収束していくだろうと、楽観視しかけていました。
しかし、その予想は悲しいことにはずれ、コロナ感染者は緊急事態宣言時よりもさらに増えました。(幸いなことに、医療現場のコロナ対処法の経験値の増大により、死者数は第一波に比べればだいぶおさえられたというふうに判断する人もいます。)
しかし、これから寒くなり乾燥してくる秋から冬にかけて、今まで以上の第3波がこないという保証などどこにもないのです。
(こないかもしれません。しかし、第2波が予想以上に来たように、第3派も予想以上に来る“かも”しれないのです)
(フランスなどではつい先日、過去最大の感染者を出したそうです)
欧州で感染再拡大 フランスで感染者が過去最多に
https://news.livedoor.com/article/detail/18848181/
正直わからなく、とりあえず一般人である自分は、混雑する所は比較的避けて、手洗いを、うがいを、かなりしっかりし、人の多いところや建物の中でなどはマスクをしっかりするということくらいしか、とりあえず自分には予防としてはそれくらいしかできることはないだろうと考えています。
>、医療現場のコロナ対処法の経験値の増大
岩田健太郎先生の解説を読んで「あ、なるほど、こうなっていたのか」と初めて理解できました。どの有識者の記事が信用できるのか、感染症の知識がないので見分けるのに苦労します(笑)
>個人的に思うのは、第3波は来るのかこないのか
来る可能性は、非常に高いと思っておいた方が良いような。
去年の今頃は、コロナ禍なんて自体を考えもしなかったのですが……激動の時代ですねぇ。
>「頭を真っ白にして」は「先入観なく」と読み取れるからです。
その通り。
ここから全体主義は想像を膨らませすぎ。
> 「とりあえずやってみよう!」「大丈夫、ダメなら戻す」という傾向が、コロナ禍でも見られます。「コロナ怖くない論」は、その代表例かもしれません。
「とりあえずやってみる」
悪い手法の例として挙げられてますが、常に悪い訳ではありません。
そんなこと言い出したら、8割接触削減も緊急事態宣言も「とりあえずやってみよう」です。
コロナのような未知な問題に対するアプローチ方法としては「やってみよう」は間違ってません。
大事なのは、
・問題をよく観察して、全体構造を出来る範囲で把握すること。
・問題を細分化して優先順位の高いものに仮説を用意すること。
・仮説は必ず検証とセットにして、実践後に見直すこと。
仮説と検証は自然科学でよく使われる手法です。
最近だとOODAループとか流行ってますよね。
ちなみに、藤井の公開質問状の主旨は、
《接触削減すれば感染抑制できるという仮説》
これをやりっ放しにするなって内容になってます。
> 藤井聡氏の「半自粛+経済優先」は、必ずしも現実否認と言えないかもしれませんよね。
私は、藤井が「感染抑制か経済か」という答えのないトレードオフ(落としどころ)を考えてる訳ではないと思ってます。
というのも「過剰な自粛がダメ」と口酸っぱく言ってるからです。
藤井は事後的なデータ分析によって、下記を主張しています。
・緊急事態宣言によって過剰な自粛となった。
・自粛による感染抑制の効果は見られない。
・自粛は経済に深刻なダメージを与える。
→「過剰な自粛は無意味」
私の理解では、
感染抑制と経済にはトレードオフが成立するが、自粛と経済にはトレードオフが成立しておらず、ただ悪戯に経済を傷付けるものだ
という主張です。
彼なりにデータ分析から「分かったもの」を選ぼうとしています。
私には、これが批判されるべき現実否認の姿勢だとは思えません。
>記事の内容が広範に及んでおり、読んでいる筆者の感想や疑問、問題点もまとめきれません。
同意します。整理が大変でした。
内容のあらすじは、
3人で藤井聡のコロナ議論の問題点を挙げまくる。その精神構造を辿ることで批判は自粛緩和派全体に飛び火し、それと対比させる形で専門家会議や西浦の立ち回りの素晴らしさを強調する。最後に、どういう考え方が正しいか共有。
私の感想は下記の4つです。
①
藁人形論法つかうなど、藤井聡の議論の進め方に問題がある。冷静になれてない。
②
中野佐藤適菜は《自粛=慎重》という価値観。
藤井は《半自粛=慎重》という価値観。
藤井や西浦を褒めるか、貶すか、そこにあるのは価値観の違い。
価値観の問題ではないと最初に適菜が言っていたが、それは藤井の議論の進め方の不味さにのみ該当する。
③
終始、コロナ関連のデータを語らず議論を進めていることが非常に印象的でした。
それが悪いと言ってるのではなく、
「コロナ対策について俺ら含め素人が断定なんてしちゃいけねーよ」
というのが、その通りだと思います。
しかし、そうすると、3人の議論に疑問が浮かびます。
「専門家会議の活躍のおかげで第一派乗り切った」「天才と呼ばれる西浦はスゴイ」「デマゴーグ」
データも無しに判断できないことを断言してます。
論理一貫性はどこに行ったんでしょう。
最終回なんて、顔見たらわかるとか、女の感覚は捨てたもんじゃないとか…この文脈で紹介したら、ただの差別的な悪口でしかない。
④
とにかくブーメランの数が多い。
「藤井が藁人形論法やってる」と言いながら、藤井の質問状に対して藁人形論法やってたのは笑ってしまった。
>藤井氏の公開質問状は、「新規感染者数が減っているから緊急事態宣言は不要だった」と専門家会議を批判している。(中野)
公開質問状は緊急事態宣言を批判する内容ではないです。それは質問状のタイトルからも分かることです。
3人は藤井の批判に夢中で、その批判が3人の議論に当てはまることを想像できてません。
批判する必要の無いところまで無理に手を広げてしまったから無理が出たんだろうと推察してます。
念のため言っておきますが、私は藤井の議論の進め方が悪いことは承知してます。
ですが、データについてよく分からないので、藤井が嘘とも西浦が嘘とも判断してません。
時間が経てば検証が進んでどっちが正しいか、そのうち分かってきます。
こういうのが慎重な態度だと思います。
今回、分かったこと:
中野剛志は記述が豊富な歴史や経済、社会については理路整然とした分かりやすい意見を述べるが、専門外かつデータが少ない未知の問題に対してはアテにならない。
三橋貴明も経済データの分析は得意だけど、選挙予想は見事に外しますね。
それと似たようなもんです。
誰かに魂の叫びを聞いて欲しく、
長々と失礼しました。
大変興味深い分析で、面白く読ませていただきました。
個人的には藤井聡さんや中野剛志さん、適菜収さん、佐藤建志さんなど皆さん感染症は専門外なので、議論が錯綜するのも仕方がないのかなと。
コロナを自然科学的に扱うなら、お医者さんである岩田健太郎さんの議論が一番しっくりきます。
ちなみに私も自然科学は全くダメダメです(笑)
>誰かに魂の叫びを聞いて欲しく、
いいですね、OKですよ魂の叫び。