コロナ禍においてさまざまな日本の姿が、明らかになってきています。中でも日本政府が責任も権限も縮小され続けた、というのはほとんど明確になりました。
「日本政府にはコロナ禍で国民を統制、統率する権限がなく、よって責任が”とれない”構造が存在する」が、今回の結論です。
上記の結論はこの期に及んで積極財政論が広まらないこととも、大いに関係しています。報道を見ても、ニュースを見ても「もっと財政出動しろ!」という声は少ないのがその証拠。
なぜこんな構造になっているのか? 衝撃、かつわかりやすい解説になるでしょう。
自粛とは何か
コロナの第一波において、緊急事態宣言が出されました。緊急事態宣言の一番のポイントは、自粛でしょう。
自粛とは「自らつつしむこと」です。
自粛とは、自らすすんで行動や態度を慎むこと。過ちを犯さないよう慎重に物事を進めることである。たとえば、軽はずみな言動をしないようにする、度を越さないよう節制するときなどに使われる。
自粛(じしゅく)とは何? Weblio辞書
自粛要請とは「最後は自分で、どのようにするか決定してください」ということ。つまり自粛要請の帰結は、自己責任とならざるを得ません。なにせ「自粛」ですし。
自粛をあたかも「政府による強制的な措置」として、議論する向きもあります。世間の空気、全体主義、民度などさまざまな観点から論じることも可能でしょう。
しかし自粛は理屈上、自分で決定すること、したことです。
コロナであらわになった日本の構造
最初に自粛について議論したのは、自粛がどのようなものか? を理解しなければ、日本政府の構造や責任、権限について思考することすらできないからです。
日本政府はコロナ禍という非常事態で、自粛要請しかできませんでした。しなかったのではなく、できなかったのです。
緊急事態宣言で店舗や施設には、休業要請がなされます。応じなければ休業指示に変化します。それでも応じなければ、店舗名や施設名を公表されます。
……これ、おかしくないです?
つまり日本政府には休業要請、自粛に応じない企業への罰則を実行する権限がない。よって名前を公表することで「世間からの袋だたき、信用失墜、自粛警察」に期待したともとれます。
逆に言えばそれだけしか、政府の指示に従わせる方法がありませんでした。
この事実は何を意味するか? 日本政府は非常事態に責任を持って国民や日本社会を、統制、統率することができないことが明らかになりました。
自粛と休業補償は理屈的にはセットじゃない
「自粛と休業補償はセット」というポスターを、近所で見かけます。筆者も休業補償をたんまり出すべきだ、と思います。
けれど理屈で言えば、自粛と休業補償はセットではありません。自粛はあくまで自分で決定したことですから、政府が補償をする立場にないのです。
強制的かつ罰則のある指示ないし命令によって、もしくはその影響によって休業させられるからこそ、政府が補償をする責任が発生します。権限や権力を行使するから、責任が発生するのです。
よって理屈上、自粛と休業補償はセットではないのです。
なぜ理屈が捻れてしまっているのか? ここに日本の抱える問題があります。
政府に強い権限と責任を与えることへの忌諱
日本国民は本音では、政府に強い権限を与えたくありません。さまざまな事象と歴史が、そう示しています。
太平洋戦争とその敗戦が、ある種のトラウマになっているとの分析もあります。
日本国民が政府の権限を縮小してきた事例を、いくつか紹介しましょう。
長年の政治不信は鶏が先か卵が先か
日本の政治はいつも、政治不信と言われます。1996年あたりから、投票率が低下しています。
1990年代はバブルとソ連が崩壊し、日本に新自由主義が輸入された頃です。では日本ではなぜ、新自由主義が蔓延したのか? 国民が新自由主義を受け入れたからに他なりません。
新自由主義とは小さな政府、すなわち政府の権限と責任の縮小です。
小さな政府になったから政治不信なのか、政治不信になったから小さな政府を目指したのか? さて、どちらでしょう。
どちらにしても日本は、1990年代から政府の権限と責任を縮小し始めました。
緊縮財政という政府権限の縮小
財政においても日本が、1990年代から権限と責任を縮小し始めた証拠があります。いわゆる緊縮財政、筆者曰く消極財政です。
政府が緊縮財政に舵を切ったのが1998年の消費増税です。日本はデフレに陥り、失われた20年を迎えます。失われた20年の「失われたものの中」には、政府の権限と責任も含まれるでしょう。
地方分権と中央集権の解体
地方分権が持ち上げられ、推し進められ始めたのも1990年代です。維新が「大阪都構想! 道州制!」などと言っていますが、この議論は1990年代から一周した議論です。ハッキリ言って古くさい。
コロナの緊急事態宣言でも、実際の行動、要請は地方自治体に任せられました。これも小さな政府だからこその現象と言えます。
嘘と詭弁と混迷と
安倍総理は「責任は私にあります」とうそぶきます。国民は問題があれば「政府の責任だ!」と声を上げます。
これはどちらも建前。
見てきたとおり本音では「政府に権限なんか持たせたくない、縮小したい」のですから。
議論に本音と建て前、嘘と詭弁が入り交じり混迷しているように感じられます。なお日本国民は安倍総理の「責任は私にある(だがとらない)」という詭弁を、長らく支持し続けてきました。これこそ「謝罪して適当に叩かれる、権限の弱い政府がほしい」ことを明示するのではないか? と思います。
コロナ禍で大切な議論とは
GoToキャンペーンが、批判にさらされています。一方で観光業界からは、東京が除外されたことでため息と悲鳴が上がっています。
GoToキャンペーンを利権と断じる者、感染拡大になると危惧する者、経済を再開させるべきだと訴える者、休業補償でよかったじゃないかと反論する者。さまざまです。
筆者? 筆者は密かにGoToキャンペーンを利用したいなぁ……と思っています。いや、旅行したいし。
閑話休題。
今回のコロナで「あの政策がどうだ、この政策がこうだ」と論じるのも大いに結構です。しかし大切な論点は「政府のどの程度の権限と責任を任せるのか?」ではないでしょうか。
「安倍政権には任せられないが、次の政権になら任せられる」という類いの議論ではありません。
「日本政府にどの程度、任せるのか? 日本政府をどの程度、信用するのか?」という議論を、我々は始める時期なのかもしれません。
>安倍総理は「責任は私にあります」とうそぶきます
あれだけ堂々と言い放ち、責任は一度も取らないわけですから、逆に総理なりの問題提起や煽りなのではと、私は穿った見方をしてしまいます(笑)。
その解釈の仕方に、ちょっとクスッときてしまいました(笑)
>「日本政府にはコロナ禍で国民を統制、統率する権限がなく、よって責任が”とれない”構造が存在する」が、今回の結論です
上記の結論はこの期に及んで積極財政論が広まらないこととも、大いに関係しています。報道を見ても、ニュースを見ても「もっと財政出動しろ!」という声は少ないのがその証拠。
上記のように、国民に対する国家権力の統制権限がなくなったのは、何も1990年代後半以降に新自由主義が蔓延したからではなく、GHQの占領政策による戦後民主主義体制が始まったからです。確かに、戦後左翼のイデオロギー的立場からすると、かつての戦時体制への反発から、「国家権力を強大化せてはならない」→「政府による財政出動は抑制すべきである」とする論調になりますが、一般国民がそのようなイデオロギー的立場から、積極的財政出動に反対しているとは思えません。
一般国民が財政出動を声高に要求しない直接の理由は、「政府の財政支出を増やせば、その分の財源確保のために重税が課される」とか、「政府の財政赤字がこのまま拡大すれば、次世代にツケを残し、いずれ財政破綻(債務不履行)に陥る」等々の嘘八百の財政破綻プロパガンダの呪縛から解き放たれていないためです。国家権力の強大化への危惧が真の理由ではありません。
>国家権力の強大化への危惧が真の理由ではありません。
うーん、そうでしょうか?
地方分権の議論は、基本的に多くの人が賛成ですよね。だから中央集権にしようなんて議論は、まず出てきません。
これって無意識に、国民が政府権力の強化を嫌っている証左じゃないでしょうか?
私は「財政破綻の嘘だけが原因」とは、断定できないと思いますよ。