べき論とは?対義語は?嫌われるべき論の正体はイデオロギーの一種

 リアルでもネットでも、べき論は嫌われると言われます。議論ではべき論を、まるで事実かのように主張する人もいます。

 なぜ、べき論は嫌われるのか? べき論の本質とは何か?

 べき論の記事をいくつか読みました。どの記事にも、べき論の本質が書かれていません。「書かれてなけりゃ、自分で書こう」が筆者のモットーです。

 今回はべき論の本質について、解説します。

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べき論とは何か?

 べき論とは何でしょうか? 「○○するべき!」という論調、ないし言い方を指します。

 例えば会議で、このような議論があるかもしれません。

社員A「2割のクライアントに、5割の労力がかかっています。2割のクライアントと契約解除して、新規クライアントを開拓した方が売り上げが期待できます」

社員B「何を言ってるんだ! お客様の要望には、できるだけ答える『べき』だろう。切り捨てるなんて、お客様にする『べき』ことじゃないよ!」

 上記の議論は理屈として、社員Aが合理的です。しかし「お客様の要望には、できるだけ応えるべき」という部分に、賛同した人もいるのではないでしょうか。
 ましてや顧客との契約を、受注側から打ち切りにするなんて! と思った人がいても、不思議ではありません。

 べき論の本質とは「理想や義務(と信じられていること)」です。「お客様は平等に扱うべき!」といくら唱えても、VIPと一般客では扱いが異なります。常連と新規なら、常連が優遇されて当たり前です。

 しかしべき論は「理想や義務(と信じられていること)」ですから、強い説得力が伴います。したがって発言された側にとっては、強制力に近い効果があります。
 端的に言えば、正義の押し売りが「べき論」と言えるかもしれません。

べき論の本来の用途

 べき論の本来の用途は「自明であると示すこと」です。例えば以下の3つについて「それは間違ってる!」と反論する人はほぼいないでしょう。

自明とは

証明したり特に詳しく説明したりするまでもなく明らかなこと

  1. 命は大切にするべき
  2. 自由は大事にするべき
  3. 相手を尊重するべき

 上記3つは人権的な観点や、現代の人類社会の観点から「自明」だからです。べき論は本来、自明を示す論だからこそ、強制力を生じさせるのです。

べき論の対義語は「である論」

 べき論の対義語は「である論」です。である論は事実関係や事実を、「○○である」と表現することから呼称されました。

 べき論と異なる点は、その事実関係を覆す事例で反論可能なところです。

 簡単にべき論とである論の、構造を参照しましょう。

 「顧客の要望には応えるべき」という主張に、どのように反論するでしょうか? 「可能だったら応えるが、現実的には難しい」「応えるリソースがない」などが考えられます。
 これらの反論は「そうするべきだとは思うが、出来ないんだからしょうがないでしょ」という構造です。つまり「顧客の要望には応えるべき」への反論ではなく、「現状ではそれが出来ない」と言っているだけです。

 べき論への有効な反論は、多くありません。なぜならべき論は「理想や義務(と信じられていること)」であり、宗教家に向かって神を否定するようなものだからです。
※なお筆者は無宗教かもしれませんが、無神論者ではありません

 逆にである論への反論は、非常に簡単です。その事実を覆す情報や事例を提示するだけで、である論そのものへの反論たり得ます。

 宗教に対してアレルギーを持つ日本人は、特にべき論への嫌悪感が多いのかもしれませんね。

一般論としてべき論者は嫌われる

 一般論としてべき論を使う人は嫌われます。これは事実です。

 ではなぜ嫌われるのか? 多くのべき論を考察した記事では「自分の主張をべき論で押しつけるから」と書かれています。なるほど、表面上はそうでしょう。

 しかし本当の理由は、ちょっと違うんじゃないかな? というのが筆者の見立てです。

 べき論を使う人は「相手を尊重していないので嫌われる」が真実だと思います。

 例えば宗教家は、明らかにべき論者です。彼らは神を信じていますし、多くの人が神を信じるべきだと思っています。では宗教家は嫌われているでしょうか? 一部のカルト的なものを除けば、人格者も多いと聞きます。

 嫌われない理由は、宗教家はべき論者ではありますが、相手を尊重するからではないでしょうか。この問いは「べき論はイデオロギー」という命題に続きます。

べき論とは社会科学的にはイデオロギーの一種

 べき論って、イデオロギーの一種です。そして筆者は、宗教も広い意味での、イデオロギーと解釈しています。

 イデオロギーとは観念形態、思想形態と訳されることもあります。

 保守思想は「現状を保守しつつ、改革は漸進的にする”べき”」としていますし、共産主義は「労働者の搾取はやめる”べき”」、啓蒙主義は「理性が絶対である”べき”」と主張します。
 宗教は「神を信じる”べき”」ないし「悟りを開く”べき”」でしょう。

 べき論はイデオロギーの「一種」と書きました。流布されているイデオロギーと比較して、ほとんどのべき論は単なる押しつけであり、重厚さも論理性も持ち合わせていないので「一種」としました。

 宗教を含むイデオロギーは、現実社会を捉える上でのフレームワークとして働きます。より思索を深める補助を、イデオロギーが担っていると言えます。

 しかし一般的に使用されるべき論は、思考停止のための道具になることが多いです。「べき」について、なぜそうなのか? と考えないからです。

政治経済議論はべき論だらけ

 イデオロギーや思想、宗教など、世の中には案外べき論が多いです。政治や経済の話にはイデオロギーが欠かせませんので、もはやべき論だらけです(笑)

 日本人がべき論嫌いな理由は、べき論が相手を尊重しないからだと上述しました。この結論を筆者は、直感的に正しいと考えています。

 前提として政治や経済の議論では、そもそも答えがない問題も多くあります。だからこそべき論も多くなります。ただしこれは、である論を軽視する理由にはなりません。

 しかしべき論とである論の区別がつかないために、である論を軽視する傾向が多いようです。例えば消極財政(緊縮財政)やプライマリーバランスが正しいとする人たちは、べき論ばかりを唱えます。

 「財政赤字は抑えるべき」「財政破綻しなくても、インフレになる! (べきという願望)」etc。

 せめてべき論とである論の、区別くらいはしたいものです。

 そしてべき論者は大抵、自分と異なる解釈や主張に対して非寛容です。対立する相手を人として尊重せず、敵と見なすことすらあります。
 だからこそ多くの日本人は、宗教、イデオロギー、そしてべき論に警戒心を持つのでしょう。

 この現状は底の浅い思考停止のべき論が、有用なべき論である宗教やイデオロギーを阻害しているように見えます。

べき論の前に客観的事実を確認しよう

 べき論は、述べることが非常に簡単かつ強力な方法です。事実やデータに基づかなくても述べられるので、主張することにかかるコストは低い。また理想や義務について述べるので、反論を許しづらく強制力も高いのです。

 かつて太平洋戦争で「日本が戦争で勝つ”べき”」という信念の元、無茶な主張がまかり通りました。

  1. 足らぬ足らぬは工夫が足らぬ
  2. 必勝の精神
  3. 欲しがりません勝つまでは
  4. 権利は捨てても義務は捨てるな

 このような歴史があった、という事実だけでも「べき論は主張するのがたやすく、強制力も高い」ことが理解できます。

 一方でデータや数字、論理性に基づいた考察や主張はコストが高いです。さまざまな知識と知見、データを総動員して主張を探し求めるからです。

 べき論が全て悪いとは言いません。イデオロギーもまた、べき論だからです。しかしべき論を述べる前に、データや事実を真っ正面から確認することが必要です。
 またべき論を述べる際、相手を尊重することを忘れないようにしましょう。

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