現代貨幣理論(MMT)で考える-日本の生産性の向上に何が必要か?

 日本は生産性が低い! 生産性の向上をしなければ! と叫ばれて久しいです。様々な改革や規制緩和が、日本で実施されてきました。

 加えて企業も生産性の向上を実現するため、システムを変えたりコストカットをしたり……とにかく様々な施策が採られました。

 けれども未だに、日本の生産性が上がる気配はありません。なぜか? 生産性の意味を、じつは誰も正確にわかっていないから「生産性の向上もできない」のです。

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生産性の向上には、生産性とは何か?を知らないと話にならない

 例えばピアノをうまく弾きたい! ピアノ演奏技術の向上を実現したい! とします。それにはそもそも、ピアノがないと演奏技術の向上はあり得ません。またピアノとは何か? を理解し、ピアノがうまいとはどういうことか? をイメージできないといけません。

 要するにピアノを知らない人が、ピアノの演奏がうまくなるはずがありません。

 生産性も一緒です。生産性の向上を実現するためには、生産性とは何か? を知らないと「話にならない」でしょう。

 ところが日本では、生産性の”表面上”の定義は知っていても、生産性の本来の意味を知る人がほとんどいません。だから日本の生産性は低いままですし、生産性の向上のための施策がことごとく失敗するのです。

生産性の定義とは

 一般的に使用される生産性という言葉は、ほぼ労働生産性のことです。生産性は以下の式で求めます。

生産性=アウトプット/インプット

 過去の記事で詳細は解説していますから、詳細を知りたい方はどうぞ。

 ポイントだけ抑えておくと、インプットは労働力やコスト、資源などです。

 わかりやすいので、料理で例えます。
 料理で言えば「料理の材料や電気・ガス(資源とコスト)、作る手間(労働力」です。ではアウトプットは何か? 作った料理がいくらで売れるかです。

 お腹がいっぱいの人たち相手に、いくら美味しい料理を作っても売れませんよね。この場合、生産性はゼロです。

 逆にお腹をすかせた人ばかりだと、多少の味の悪さなど気にせずに売れます。前者に比べて「料理の質は悪いはずなのに、生産性は高い」ことになります。

 アウトプット、すなわち付加価値とは「いくらで売れるか」です。従って需要の量が生産性を左右します。

 世間では「品質を高めること=生産性の向上」との誤解があります。品質をいくら高めようが、売れなければ生産性はそのままです。つぎ込んだ労働量が大きくなるだけ、むしろ生産性は「下がる」傾向にあります。

現代貨幣理論(MMT)の世界観と生産性

 主流派経済学は、世界をサプライサイド(供給側)から見ます。セーの法則を、信じているからです。セーの法則とは、作ったら作っただけ需要も出てくるという非現実的な法則です。

 現代貨幣理論(MMT)は、オンデマンドサイド(需要側)から世界を捉えます。需要があるからものが売れるという「当たり前の事実」から、現実を観察します。

 生産性とは付加価値、すなわち金銭で値段がつけられ計られます。需要がなければどのような完璧で希少性のある財やサービスも、生産性ゼロです。最高の品質であれなんであれ、需要がなければ生産性はゼロになります。

 日本が間違ってきたのは、まさに需要を無視してきたからです。逆に言えば需要さえ増加すれば、生産性の向上は「勝手に、自然と」達成されます。

 生産性の源泉とは需要である。これが現代貨幣理論(MMT)的な、生産性の解釈です。

需要増加こそ全体的な生産性の向上に必要

 需要が増加すれば、勝手に自然と自動的に! 生産性の向上が果たせます。逆説的ですが需要が減少する状況では、企業や労働者がいくら頑張っても生産性の向上は起こりません。

 では需要の増加とは、どうすれば起こるのでしょうか? とても簡単です。政府が支出して、民間に仕事を発注すればよいだけです。つまり積極財政をすれば、需要は増加します。
 乗数効果によって経済全体にも需要拡大が広がり、従って生産性は勝手に、自然に、自動的に向上します。

 「日本は生産性が低い」と嘆く前に、政府は政府支出を拡大すればよいのです。
 日本の生産性が低いのは、逆説的ですが政府が緊縮財政をしているからです。

 緊縮財政でデフレにして、需要を減少させて生産性を低下に追い込み、なおかつ「日本の生産性が低い! 向上しない! なぜだ!」と嘆いているのが日本です。

 端的に言えば、自分で自分の首を絞めながら「苦しい! 呼吸が確保できない!」とわめいているようなものです。狂ってますよね。

生産性の向上まとめ

 「生産性の向上によって利益が上がる」という言い方は、正しくありません。なぜなら「生産性の向上=利益の増加でしか計れない」のですから。

 「生産性が向上したから、利益が上がる」のではなく、「利益が上がったので生産性が向上したとわかる」が正解です。

 個人や企業では「売り上げを上げて、他社や他のシェアを奪い取ること」が、生産性の向上の意味です。ただし「奪われた他社や他の人たちの生産性は下がる」のですから、全体的な生産性に変化はありません。

 国家全体や政府が「日本の生産性の向上を果たすため」には、需要増加以外の方法はありません。これは「原理的にそうなので」としか言い様がありません。

 国家全体としてみた場合、「生産性の向上でものが売れるようになる」のではなく「需要の増加で、結果として生産性の向上が確認される」のです。
 ちなみにケインズが言うように、穴を掘って埋めるだけの「生産性がなさそうな仕事」でも、そこに政府支出(需要)が伴えば生産性の向上になります。

 生産性の向上とは、国家全体では需要創出を意味するのです。

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花のヤン
1 月 前

>主流派経済学は、世界をサプライサイド(供給側)から見ます。
>セーの法則を、信じているからです。

花のヤンと申します。
お久しぶりです。

他にも突っ込むところがありますが、ひとますこの部分だけ問題提起しておきます。
ちらっと聞いただけの話なんですが、新古典派はいかなるときでもセーの法則が成り立つという考え方ではないようですよ。

モデルとしてセーの法則が成り立つものとしているだけのことであって、新古典派のモデルでは需要不足になる場合も式にそうした項を加えているそうです。
もっとも、この話はかなり昔に苺か2chで誰かが言っていたことなのですが。
その人の話では、大学生レベルでは教材用のセーの法則が成り立つ場合のみのモデルを使っているということでした。

この話が本当だとすれば、菅原晃氏などは教材用のモデルを真に受けてしまっている駄目な人ということになりますね。

花のヤン
Reply to  高橋 聡
1 月 前

>例えばデフレで規制緩和をしてみたり

いや、これは新古典派経済学者の発言ではないでしょう。
といいますか、ニューケインズも含めて大抵の経済学者は大筋では構造改革論者ですよ。

私が言いたかったのは、的外れな批判をやらかすと恥をかく結果になりかねないということです。
比較優位説のときもそうでしたが、的外れな批判をやらかすと「恥をかく」だけではなく、有効な批判とはなりえず、さらにご自身の他の主張も皆から胡散臭く思われることにもなる危険性があります。
あまり軽く考えるべきではありませんよ。

なお、先の投稿の後Wikipediaの「新古典派経済学」の項目に次のような記述を見つけました。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%B4%BE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6)
「経済学者の飯田泰之は「主流派経済学=新古典派には、需要不足による不況の視点がないと指摘されることがあるが、現在(2003年)の理論研究の中心である最適化行動に基づく動学一般均衡理論から、十分需要不足による停滞・マクロ政策の効果を導くことができる。情報の経済学を応用したモデルなどがその例である。新古典派であるからいつでも適切な均衡にあるというのは、学部教育での便宜的な単純化に過ぎない」と指摘している[17]。 」

やはり、「需要不足による不況の視点がない(=セイの法則が常に成り立つ)」という考え方は教材用の簡略したモデルであって、新古典派経済学というものはそんなに単純なものではないようです。
逆に言えば、大学のような高等教育機関での講義でさえ簡略モデルを使うという点で新古典派経済学は難解なのかもしれません。

花のヤン
Reply to  高橋 聡
1 月 前

>動学的一般均衡モデル――たしかDESGだったかと思いますが――も、セイの法則を前提としていますよ?

それはDSGEですよ。
それに、動学的一般均衡モデルは新古典派だけでなくニューケイジアンも利用しています。
あまり有効な反論とは思えませんね。

また、最初の投稿で述べたように(まあ、伝聞ですけど)、新古典派のモデルはセイの法則が成り立つものとして構築してあるものの、需要不足については需要不足の項を付け加える考え方だそうですから、セイの法則を前提としていても「セイの法則が常に成り立つ」というモデルというわけではないと思います。

>なお上記批判内容は別に、私の見解じゃなくて「主流派に批判的な経済学者」たちが主張するところです。

誰が主張しても構わないのですが、的外れな批判をすれば恥をかくだけのことです。

>あと議論的なものは面倒なので、他でどうぞ。

そうですか。
私としては、議論というより忠告のつもりだったのですが。

もっとも、いずれまた本格的な議論をすることもあるでしょう。