「資本主義の限界」といった言葉が、ときどき聞かれます。資本主義の限界について、なんとなくイメージで「ああ、そうかもな」と思う人は多いでしょう。しかし内容やポイントを、しっかりと抑えている人は少ないのではないでしょうか?
ポイントだけ抑えておけば、おおよその全体像はつかめます。また一般論として語られる「資本主義の限界」とは別に、きっちりとした「資本主義の限界の定義」も解説します。
資本主義とは何か?
資本主義の限界を知るためには、そもそも資本主義とは何か? を理解しないと始まりません。資本主義の本質部分は何か。それは「負債」です。
近代資本主義の幕開けと文明
近代資本主義の幕開けは一般的に、イギリスの産業革命だと言われます。一般論では「蒸気機関の発明によって産業が工業化し、大量生産大量消費の時代が幕開けた」との認識でしょう。
けれども「なぜ資本主義は中国でもフランスでも、ドイツでもなくイギリスからだったのか?」と考えたことはありますか? イギリスが近代資本主義の発祥になったことには、ちゃんとした理由があります。
それはイギリスが、世界で最初に中央銀行制度を整えたからに他なりません。
資本主義の基本原理「負債」
中央銀行が、近代資本主義の大切なポイントです。
経済学説で中央銀行は、国家のいち行政組織です。このような考え方を、統合政府論と呼びます。現実的にもリーマンショック以降、統合政府論を主流派経済学者たちも認めざるを得ない状況です。
中央銀行とは、通貨を発行する組織です。通貨を発行するには、信用創造機能を働かせます。信用創造について、詳しいことは以下の記事を参照。
上記は民間の信用創造ですが、国家と中央銀行でも本質的には同じです。
いろいろ端折って、ポイントだけ述べましょう。
- 中央銀行制度ができる以前は、巨大な負債を発行できる存在がなかった
- 中央銀行制度と通貨発行権によって、巨大な負債を発行することが可能になった
- 巨大な負債は、巨大な事業を可能にした
近代資本主義以前は「1兆円を貸す存在」はいませんでした。1000億円でも、なかなか難しかったことでしょう。しかし中央銀行制度によって、巨額の通貨を生み出し貸せる=借りられる経済形態が生まれました。
なお資本主義国家で、自国通貨建て国債をゼロにした国家は存在しません。健全な資本主義国家運営は、自国通貨建て国債が増え続けます。
なぜなら資本主義の本質とは「負債を拡大し続けながら、経済成長をする経済形態」だからです。
資本主義の限界が来ていると言われるポイント
一般論として、資本主義の限界は以下のポイントで議論されます。
- GDPという指標の限界
- 富の偏在と格差の拡大
- ニューノーマルと長期停滞
- 地球環境と資源の持続可能性
それぞれどのような議論か、参照してみましょう。
GDPという指標の限界
GDPは経済規模を表す指標です。GDPとは「国内で生産された付加価値の総合計」です。
ではなぜGDPという指標が、限界と言われるのか?
- GDPでは値段が付くものしか計れない
- GDPという指標が拡大しても、国民が幸せかどうかはわからない
- GDPが拡大することが、本当にいいことなの?
上記のような議論が、資本主義の限界として議論されています。
富の偏在と格差の拡大
富の偏在と格差拡大も、資本主義の限界として議論されています。
- 資本主義は本質的に、富を偏在させて格差を拡大させる
- 格差が拡大すると、様々な不満が生まれる
- その限界点がもう訪れるのではないか?
この富の偏在と、格差の拡大は以下の「ニューノーマルと長期停滞」議論に続きます。
ニューノーマルと長期停滞
ニューノーマルとは「いままで普通じゃなかったことが、普通になった状態」です。異常事態が普通の事態になった、との表現がわかりやすいでしょうか。
長期停滞とはリーマンショック以降の、世界経済の成長鈍化を指します。
- 富の偏在によって超大富豪やグローバル大資本が生まれた
- 一方で貧困層の消費や需要は減少→長期停滞に陥る
- 大資本は実体経済で稼げないので、マネーゲームに興じる
- 何らかのショックで金融危機が頻発する→ニューノーマル
- 世界全体の経済成長が停滞に→長期停滞とニューノーマル
このような構造が資本主義の限界として、深刻に議論されています。
地球環境と資源の持続可能性
地球環境と資源の持続可能性も、資本主義の限界論でよく出る議論です。
- 資本主義によって大量生産・大量消費社会になった
- よって大量の資源が必要
- 石油や石炭を燃やせば、地球環境を破壊する
- 資源は続くのか? 地球環境は後戻りできない破壊にさらされているのでは?
- このまま資本主義は持続できないのではないか?
おおよそ上記のように議論されます。
GDPという指標の限界論から、地球環境や資源の持続可能性論まで見てきました。これらの議論は正鵠を射ているのでしょうか?
「資本主義の限界」とはそもそもどう定義するべきか?
最初に資本主義を定義したのは、そうしないと資本主義の限界が定義できないからです。資本主義とは「負債を拡大し続けながら、経済成長をする経済形態」でした。
であれば「負債が拡大できない」か「経済成長できない」が、資本主義の限界として定義されるべきでしょう。
GDPという指標が限界なら資本主義の限界なのか?
GDPという指標の限界論は「それは指標の限界でしょ?」で終わります。しかし少しだけ、深掘りしてみましょう。
GDPという指標が限界論の本質は、資本主義という枠組みで人間が幸せになれるのか? という疑問に端を発します。なるほど、これ自体は非常によく理解できます。
けれどもこの議論には、見落としが存在します。
「それは資本主義の限界ではなく、政治の話なのではないか?」という部分です。
地球環境と資源の持続可能性は科学の領域
地球環境と資源の持続可能性は、はっきり言って科学の領域です。仮に資本主義以外の経済形態なら、問題にならなかったのでしょうか?
と、正面から答えると上記の応答になります。
けれどこの議論も、本質は「大量生産・大量消費社会への疑問」が発端になっています。歯車のように働かされことへの疑問、と言い換えてもよいでしょう。
資本主義の限界の本質は「格差・長期停滞」にある
資本主義の定義からすると、資本主義の限界とは「これ以上負債が拡大できない」ないし「これ以上経済成長できない」です。
そして経済成長を阻害しているのが、富の偏在と格差です。
本質的に資本主義は、富を偏在させます。その富の偏在が格差となり、経済成長を阻害します。つまり資本主義とは本質的に、放任しておくと自滅する経済形態です。あらびっくり、でしょ?
ちまたで議論される「強欲資本主義」「生きがいのない資本主義社会」「搾取されるだけ」などは、すべて「資本主義の放任」に端を発していると言えます。
資本主義の限界「格差・長期停滞」と政治
資本主義の限界は「資本主義を放任すると自滅すること」に他なりません。この自滅は防げないのでしょうか? もちろん、防げます。
資本主義の限界、つまり資本主義を自滅させないためには、放任しないことが肝要です。資本主義をコントロールし、規制しうるのは政治です。
世界は1980年代頃から、グローバリズム・新自由主義に舵を切りました。小さな政府を目指し、資本主義を放任し始めました。
こうして放任された資本主義が現在、自滅という限界を迎えようとしています。現在噴出している様々な問題を解決するには、政治が強力に活動する必要があります。
資本主義の限界ではなくグローバリゼーションの限界
資本主義という経済形態は、政治があってこそ持続可能性を発揮します。なぜなら資本主義はそもそも、中央銀行制度という「中央集権的制度」によって生み出され、発展してきたものだからです。
経済学の中には、自由競争に任せれば見えざる手が働き、資本主義が全てうまくいくという主張をする妄想集団がいます。――たちが悪いことに、この妄想集団が経済学の主流派です。
失礼。口が過ぎました。
しかし現状を見渡すと、政治なき資本主義がまさに限界を迎えています。主流派経済学者たちの主張をまともに信じて、グローバリズムと新自由主義を進め、小さな政府を志向してきた結果です。
資本主義の限界を解決するには、政治や人が主、お金が従という本来の社会に戻すことが必要です。
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