ポピュリズムってなんでしょうね? マスメディアでは「れいわ新選組はポピュリズム!」とか「現代貨幣理論(MMT)はポピュリズム!」と、批判的色合いで使われる言葉です。
結論を先にいいますと、ポピュリズムとは「民主主義国家において、批判として使用されるべき言葉ではない」のです。
批判で使用している人たちは、語源も意味も知らずに「愚かな大衆の衆愚」という意味で使用します。
……しかし、上述のような意味合いで使用する人たちこそ「愚かな大衆」にほかなりません。
ポピュリズムの語源、本当の意味、民主政治としてどうなのか、問題点などをわかりやすく解説します。
ポピュリズムの語源と発祥
ポピュリズムの語源は、ラテン語のポプルス(populus)です。古代ローマでは「市民権を持つもの」という意味です。
英語ではピープル(people)が語源になります。これも直訳すれば「人民」「人々」です。
通常はエリート主義(エリティズム elitism)との対義語として、ポピュリズムは使用されます。
ポピュリズムが歴史に、言葉として登場したのは19世紀末。アメリカの人民党(ポピュリスト党)が繰り広げた政治運動が、ポピュリズムと呼ばれました。
19世紀末のアメリカの農民たちの、窮状を救おうとした政党が人民党です。もちろんアメリカの農民たちも、人民党を支持しました。
これがポピュリズムの発端となります。
日本語でしばしば誤訳されるような「衆愚政治」「大衆迎合主義」は、正しくありません。
大衆は英語で「mass」ですし、愚かは「stupid」なのですから。この手の「日本人は英語をわからないから、カタカナ英語を的外れに訳す」のは、本当に腹が立ちます。
ポピュリズムは「人民主義」「庶民主義」とでも訳するべきです。
では衆愚政治や大衆迎合主義は、どう訳するべきか? ポピュ”ラ”リズム(popularimg)とでもいうべきでしょう。people(ピープル)ではなく、popular(ポピュラー:人気)主義です。
故:西部邁さんはこの手の語感に、非常に繊細な感覚をお持ちでした。ポピュ”ラ”リズムも、西部邁さんが提唱した言葉です。
反知性主義としてのポピュリズム
ポピュリズムも日本で、かなり誤解されている言葉ですが――反知性主義も同じくらい、誤解されている言葉です。
よく誤解された上で使用される例としては、「ネトウヨは反知性主義!」とかでしょうか。つまり「バカ、知性がない、理性的でない」という意味で、反知性主義が使用されます。
この使用法は「自分が知性がなく、バカなのを晒しているだけ」なので、やめましょう。
反知性主義とは「エリート主義への反発や懐疑」であり、知的”権威”への反発や懐疑です。
決して「知性への反発や懐疑」ではありません。あくまで「知的”権威”」への反発や懐疑です。
わかりやすい例を述べましょう。新古典派経済学は「知的権威」ですが、「真実とは限らない」でしょう? 実際に私は、新古典派経済学を批判してます。
つまり私は反知性主義になるのです。
グローバリズムは、世界中のエリートたちが導いてきたものです。しかし弊害や限界が見えてきました。グローバリズムを批判することは、反知性主義です。
しかし「知性がないから、批判する」のではありません。むしろ「劣化エリートを、庶民が生活実感とプラグマティズムから批判する」のが反知性主義のエッセンスかも知れません。
ポピュリズムと反知性主義は、しばしば同列に語られます。批判的な意味合いで。
しかし「エリート主義への反発と懐疑」という意味で、この2つはほぼ同列です。
EUとグローバリズムと反知性主義やポピュリズム
イギリスでは特に、ブレグジットに賛成する人を「反知性主義! ポピュリズム!」と批判しました。
誰が批判したか? マスメディアや、それを利用するエリートたちです。つまりグローバリズム派、新自由主義派です。
EUでは移民問題が、生活実感として語られるようです。
端的に例えれば、あなたの家によく知りもしない隣人が入ってきた。これと同じ拒否感です。勝手に台所を使われ、寝室の1つを占拠される。
「多文化共生!」などといいつつ、ですね。誰だって嫌ですよね?
嫌なので「嫌だ! 俺の家は、俺のものだ! 俺と家族のものだ!」と声を上げると、エリートたちから「反知性主義! ポピュリズム!」と糾弾される。これがEUが経験したことです。
エリートが信用できなくなって、当たり前でしょう。
民主主義とポピュリズムないし、グローバリズムとポピュリズム
ダニ・ロドリックの「世界経済の政治的トリレンマ」は有名です。
- グローバル化
- 国家主権
- 民主主義
上記3つのうち、2つまでしか同時に成り立たないという概念です。
中国は民主主義じゃないので、国家主権とグローバル化を同時に並立できます。
EUはグローバル化して、国家主権の一部と、民主主義の一部を犠牲にしてます。
日本は……国家主権もアメリカの属国ですし、民主主義もどうなのか。グローバル化特化型でしょうか(苦笑い)
端的にいえば「グローバリズムは、民主主義を犠牲にしないと成り立たない」です。
ブレグジットが国民投票で決定されたイギリスは、いまだにEU離脱を果たせません。民主主義がグローバル化に押されているのです。
本来、民主主義とポピュリズムは「相性が良いはず」です。なにせ、人民主義がポピュリズム。国民主権が民主主義ですから、当然です。
なぜ今、ポピュリズムが否定的に語られるのか? グローバリズム(地球主義)だからにほかなりません。
エリートたちが新自由主義・グローバリズムを嬉々として推し進め、それに対して庶民が「もう嫌だ! 俺達のことは、俺達で決める! エリートなんか、クソくらえ!」と反発する。
エリートやエスタブリッシュメントは庶民を押さえつけるため、「ポピュリズムだ! それは悪いことだ! いうことを聞きなさい!」とする。
これが世界の現状です。
レントシーキングとグローバル化に利用されるポピュリズムとルサンチマン
ルサンチマンとは、簡単にいえば「劣情、嫉妬」です。他者への(特に優位なものへの)鬱屈した感情を、ルサンチマンといいます。
ルサンチマン自身は、別に悪いことではありません。人間、誰しもいだきます。特に、日本のように国民が貧困化していく国家では、ルサンチマンがないほうがおかしい。
しかしたびたび、ルサンチマンは利用されます。
「既得権益だ! アイツラが既得権益を独占しているから、お前たちは貧しいんだ! 奪い取れ!」というわけ。
こうして煽って、郵政民営化、水道事業民営化などをすすめるのです。
ちなみに既得権益は潰したら、その権益が「他の誰か」に移るだけです。たいてい、その「他の誰か」はレントシーカーです。竹中◯蔵のような。
ポピュリズムの問題点とはまさに、煽られやすい点にあります。
世論や民意って、たいてい半分くらいは間違ってますからね(笑)
ポピュリズムとプラグマティズムと生活と政治
なぜ民意の半分くらいが間違うか? 3つ理由があります。
- 立場が違えば、利害も異なるから
- 生活実感に基づいてないから
- よくわかんないので、適当(つまり確率論で半々)
工業に努めている人は、工業を優先してほしい。農業の人は、農業を優先してほしい。当然利害の対立は起こりえます。
これは民主主義なので、しょうがない話です。
間違うというより「対立が起こる、意見を違える」ですね。
2.ですがこれが深刻です。どうも政治と生活実感は、日本においては乖離しています。後2ヶ月で消費税増税がほぼ確定なのに。
なぜ乖離するのか? は後述します。
3.はまあしょうがない。私だって皇統論とか、よくわかんないもん。3.は脇に置きましょう。
思うに、生活実感と政治が乖離した原因は、デフレです。一般的に見れば、そうでしょう。
だってあれだけ「改革! 良くするのだ!」とかいって、なーんにも良くならない。
普通なら「ああ、政治がどうしたって『俺達の生活』には関係ないんや」と思って当たり前。
私ですらブログを書くのに、苦痛なくらいですから。だって、変わらへんやん。なーんも。政治的主張が苦痛でしかありません。正直、しんどいです。
だから通常、一般の人は「そんなしんどいこと、したくない」ので「生活から政治を切り離す」のです。
しかし日本ももうじき、「政治が生活に完全に響いて、マズくなる」ことになります。いや、貧困化してますし、そらそうでしょ。
日本でもポピュリズムの台頭が、おそらく起こるでしょう。
ポピュリズムとか反知性主義といった用語の本来の語源は個人的には知っていましたが、仰る通り、マスメディアで流布された結果、ネット界隈でもほとんど否定的な意味でがんがん使われています。しかも、言論攻撃対象を一刀両断に切り捨てるためのレッテル貼りの決め台詞として。
だから、例えば、山本太郎さんを称賛するつもりで「彼はポピュリストだ!」と言っても、ほとんど大衆迎合主義の意味で捉えられてしまう。否定的な意味合いでは、西部邁さんの考えた”ポピュラリズム”なる言葉を使うのが一番ですが、全然普及してないですね。残念ながら。
ところで、似たようなニュアンスの言葉ですが、個人的にかなり違和感を感ずる用語が「歴史修正主義」です。Wikiによると、歴史学における用法では、肯定的な意味(新しく発見された史料に基づいて歴史を再解釈し、叙述し直すこと)を持つそうです。
しかし、一般的には、ご存じの通り否定的な意味、それも言論攻撃対象に対するレッテル貼りとして使われている。そうなると、客観的に誤った歴史認識を正そうとする主張は何と呼ぶべきなのか?世間的な誤解を招かないような適切な言葉が見当たりません。やはり、「歴史修正主義」なる用語の使い方も違和感満載です。
エリートの劣化が見えますよね……。ポピュリズムは本来、民主主義と相性の良い言葉のはずですのに。
「歴史修正主義」の使用法は知りませんでした。なるほど。
>そうなると、客観的に誤った歴史認識を正そうとする主張は何と呼ぶべきなのか?世間的な誤解を招かないような適切な言葉が見当たりません。
歴史実証主義? とか(汗)
中韓のプロパガンダもそうですが、明治維新の司馬遼太郎史観も「なんでやねん!」が多いですからね~。
個人的には、織田信長の人物像も「え? この人、そんなに過激派じゃないような……」と考えてます。
※みんな大好き戦国史ですが、私も大好きです。
>私ですらブログを書くのに、苦痛なくらいですから。だって、変わらへんやん。なーんも。
以前も書いたことがありますが、それは95%くらいの確率で、ありえないと私は考えています。(そこは本来は100%と書くところですが、私は『絶対』がそれほど好きではないので、ここは100%に準じる95%です。すみません。(^-^;)。ただ、個人的な内心では、ほぼほぼ100%だと、ほぼほぼ確信はしています)
ヤンさんの書かれている文章は、ほぼおそらく、95%以上の確率で、バタフライエフェクトをおこしているはずです。
私はこの考えを、ほぼほぼ確信に近いレベルで考えています。
ですので、変わらないということはないはずです。
ただ、今は雪の下で春を待つ種のように、表では見えずらいはずで・・。しかして、ほぼほぼまちがいなく、ヤンさんの羽ばたかせたものは、別の所に影響を与えているはずなのです。ほぼまちがいなく、です。それを私はほとんど疑ってはいません。
ただ、風が吹けば桶屋が儲かるが如く、風だけを普通は人は見るもので、なかなかそのはしっこの桶屋にまではなかなか人は意識が向かないので桶屋の儲けにまでは気づきづらいというだけの話なのではないかと、思うのです。
吉田松陰だって、場合によっては、生前の段階では、『俺のやってることってなんか意味あんのかな?』・・って、場合によっては思ってたかも、しれません。
吉田松陰だって、まさか自分の起こした小さな塾が、幕府をそののちやっつけるとは、生前は夢にも思わなかったでしょう。
忠義の心というのは、大小かかわらず、どこかでかならず、なにかの忠義を、バタフライエフェクトでおこしているはずだと、それが忠義の心であるかぎりにおいて、それがどこかでおこなわれているはずだと、もしくはおこなわれるはずだと、私は信じています。
まあ、私がかってにそう信じているというだけの話ではありますが・・。
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>しかし日本ももうじき、「政治が生活に完全に響いて、マズくなる」ことになります。いや、貧困化してますし、そらそうでしょ。
>日本でもポピュリズムの台頭が、おそらく起こるでしょう。
ですので・・、私個人はなんとなく、山本太郎さん率いるれいわ新選組が結果として、野党側の財出勢力として躍進したニュースを聞いて、その結果、喜ばしくも思う反面・・「ああ、この国も、もう、そこまで抜き差しならない状況にまで追い詰められているんだな・・」「もはや、きれいごと(平和〝主義〟)だけをいってお茶を濁す、そんな余裕さえ、国民には失われてきたんだな」「これはその証左なんだな・・」
・・と、思うのです。
ですので、なんとなしにですが、れいわ新選組の躍進を望む反面・・、何とも言えない複雑な気持ちにも、どうしてもなってしまう・・、のでした。
れいわ新選組の躍進が、この国の国民の疲労の結果だと思うと・・。
7年前、バカ総理が就任直後から、今と違って真面目に仕事をしていれば、今、このようなことにはなっていなかったな・・と、思うと・・。
なんだか励ましていただいたようで、ありがとうございますm(_ _)m
愚痴の類ですが、1日に2時間も3時間もかけて書いて、仕事もしてですから(笑)「もういやや~!」ともなるのです(笑)
お出かけの前日とかに「あ……明日のブログ書いとかな」がまっさきに浮かびますし(笑)
これからもパタパタと、蝶々のように記事を書いていくのです。……たまーにお花に止まって、休みたい気もしますが(笑)
れいわ新選組は、報道でもかなりの話題性ですね。嬉しい反面、というのはすごく理解できます。
2000年代なら確実に、れいわ新選組は泡沫政党だったはずです。
どんどん世の中が、しんどくなってきている証左ですものね。
しかし佐藤健志さんによれば、「ますます爽快になる」とのこと。
あまり時間が残されていないので、進撃の庶民や当ブログをさっさと数十万PVにあげねば……です。
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