全体主義と緊縮財政-ハンナ・アーレントに学ぶ凡庸という悪魔

 本日は全体主義について、解説します。全体主義を最初に論じたのは、ご存知ハンナ・アーレント。
 アーレント? ナチス・ドイツを論じた人でしょ? 日本には関係ない?
 大いにあります。

 なぜなら、全体主義とは政治思想に関係なく蔓延るのですから。
 結論をいえば日本は、緊縮財政・全体主義に突入しています。とうの昔から。それに気がつけなかったのも国民、助長したのも国民です。
 決して……政治経済に詳しくない「ノンポリ」も含めてです。

 全体主義を解説するとともに、日本の緊縮財政・全体主義を論じます。

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全体主義とはなにか?

 全体主義とはなにか? ハンナ・アーレントの論じたところによると、イジメの構造と似ています。多少損をしているけど、自分以上に損をしている人がいる! だから自分は、まだ「最下層ではないんだ」が、傍観者の視点です。

 加害者? 全員クソです。肥溜めよりなお、汚臭を放つクソです。傍観者も、被害者からすれば一緒のようなものでしょうが。
 加害者は罪だとして、傍観者も「止める勇気がない」ので罪です。

 戦術的にいえば、被害者から各個撃破される状況です。「俺には、関係ない」とね。
 この連鎖こそが全体主義です。

 クラスでイジメがあったとしましょう。傍観者は最初だけ。最終的には「囃し立てる人」になるはずです。もしくは「見て見ぬふりをする人」か。当事者意識が欠如してるのです。

 この思考停止状態こそが、全体主義のエッセンスです。

緊縮財政によって、日本人が日本人をいじめる構造

 年金問題、所得格差。いろいろありますが、そのたびに「世代間格差」という「世代間抗争」を煽られます。
 本来は緊縮財政が問題です。

 しかし20年も続けば、人間辛抱ならないものです。誰かのせいにしたい! のです。そうして世代間格差や抗争に、発展するのです。

 そんなことは、置いておけ! と思います。実質賃金、名目賃金ともに1997年をピークに下落し続けています。誰にその責任を追わせるべきか? 経済政策を待ちが続けた政府であり、そして”我々日本国民”です。

 過去20年間は、受け止めたくはないでしょうが「日本人が、日本人をいじめる構造」だったのです。

沈黙の螺旋と言論封殺

 なぜそれでも、緊縮財政・全体主義が続くのか? プライマリー・バランスを否定すれば人にあらず。主流派経済学でなければ、人にあらずという”言説”のせいでしょう。

 このような圧力にさらされ、1つ、また1つと「言いたいことを言わなくなる」のが「沈黙の螺旋」といいます。
 全体主義で顕著に出る、1つの現象です。

 ならば抗わねばならない。
 ブログをやっていれば、後ろから卑怯にも撃ってくる輩もいます。アホの子ですけど。
 彼らは広義に、沈黙の螺旋への圧力へ加わっている「多数派」です。

 喰い破らなければいけない。「デフレに積極財政」という、単なる真実を知る我々は、小さくても反抗せねばならないのです。
 そして……「デフレには積極財政」と理論体系化したのが、現代貨幣理論(MMT)となります。

現代貨幣理論(MMT)という希望

 現代貨幣理論(MMT)は、積極財政派の理論的支柱になりつつあります。
 又貸し理論(外生的貨幣供給論)が正しいと思うのなら、それは理論的帰結として「新古典派経済学」です。

 現代貨幣理論(MMT)によって、緊縮財政・全体主義が敗れるかも知れない。この希望こそが、積極財政派、反緊縮派が現代貨幣理論(MMT)を、理論的支柱に据えようという動きです。

 機能的財政論だけで、積極財政支持を増やせるか? 散々やってきました。結果はいつでもNOでした。
 なぜなら、機能的財政論は貨幣まで理論化していません。統合したのが、現代貨幣理論(MMT)なのですから、どっちが強力か? 理解できます。

失われた20年を取り戻すのは、容易ならざることです

 なぜ失われた20年が発生したか? 日本国民が支持したからにほかなりません。それ以外の理由がありますか?

 小泉政権のときに、7割がグローバリズムを支持したのです。警鈴? ほんの数人が鳴らしていただけでした。
 改めて総括しましょう! 日本人は2000年代初頭に、無知であったと。顧みましょう。私も小泉政権を20代前半で、賛美してましたと。
 己の過ちを悔いましょう。支持するべきではなかったと!

 佐藤健志さんによれば「日本は、過去への総括が必要でしょ」とのことで、私も賛同します。ならばまず、自身の過去を総括するべきではないか? と思います。

 総括できない人は、全体主義の歯車になるだけです。傍観者、もしくは加害者として。

凡庸という悪魔

 ハンナ・アーレントは「凡庸は罪だ」といいます。凡庸とは「思考停止しているから」罪なのです。
 先日申し上げたオルテガの「大衆人」と共通します。
参照:オルテガのいう大衆人とは?ネトウヨや誹謗中傷ブログは大衆人だ

 凡庸とは「悪」です。ヘチャッとした器のような、アイヒマンのような「出世にしか興味がなかったような」悪です。
 ハンナ・アーレントがアイヒマンの裁判を見たとき、愕然としたそうです。

 かつて――ハンナ・アーレントもユダヤ人です――ユダヤ人を迫害した、その省庁とでもいうべきアイヒマンが、普通で、凡庸で、出世にしか興味がない俗物だったことに。
 凡庸こそが「悪だ」と、ハンナ・アーレントは悟ったのです。凡庸とは、思考停止です。

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2 Comments
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Muse
5 年 前

>なぜ失われた20年が発生したか? 日本国民が支持したからにほかなりません。それ以外の理由がありますか?

そこが一番肝心なところで、Twitterや他のブログを見ても、自民党政権や安倍政権を糾弾したり、あるいは大企業や富裕層、ネトウヨ等の安倍政権支持者を批判する書き込み(もちろん、その言説の内容自体は正しい)は数あれど、「自分自身を含めた日本の有権者全体の責任である」という趣旨の書き込みはほとんど見受けられません。

これは、大衆社会特有の病理、すなわち「社会の同調圧力に安易に屈して少数者を排除し、そうした自分自身の行動に疑問の余地を差し挟むことすらしない、さらにそのような思考停止状態に陥ってしまったことを自己反省することもしない」という現象を多くの人が自覚できないためです。こうした大衆社会の病理こそが、いわゆる小泉劇場や橋下劇場、そして今の安倍長期政権といった政治の劣化と腐敗を生み出した元凶だと言えます。

ところで、ニーチェやオルテガの思想をベースに大衆社会批判を行った西部邁さんや適菜収さんのような評論家は、いわゆるネトウヨ評論家とは対照的にあまり大衆受けしないわけですが、逆説的に言えば、”だからこそ”彼らの言説は大変傾聴に値すると断言できます。