本稿はネトウヨ批判ではなく、ネトウヨ(ネット右翼)と呼ばれる層を、真面目に論じ、定義したいと思います。
私は元ネトウヨですが、現在は基本的にネトウヨが好きではありませんので、批判記事を差し上げることがあります。
よく5ちゃんねるなどの論争で聞かれるのは、「ネトウヨに定義がない!」との反論です。ネトウヨ批判記事でも、同様のコメントを頂いたりします。
これらの反論はある種、ポピュリズムに明確な定義がない! と反論するのに似ています。
しかし明確な定義がないことと、その現象が現実で起きていることは、区別されるべきです。現実の現象に対応する、定義づけられた名称がないことだってあるからです。
ネトウヨは定義できるかどうか?
最初に、ネトウヨ(ネット右翼)は定義できるのか? を検討します。
いくつかの現象、事象から考えてみましょう。
- 一般的にどのような層をネトウヨと呼ぶか、おおよそ定まっているか?
- 右派からのネトウヨ批判に、共通点はあるか?
1.を考えますと、一般的には「嫌中・嫌韓で愛国者を名乗り、メディアが在日朝鮮人に乗っ取られているなどの、デマを信じる人々」という認識でしょう。
2.ですがじつはwikiなどを見ても、リアル右派はネトウヨに対して、かなり批判的でもあります。
参照:ネット右翼 – Wikipedia
これら右派からのネトウヨ批判には、一定の共通点が見いだせると思います。
現状、様々な分析がなされておりますけれども、その一助になればと思います。
リアル右派からのネトウヨ批判抜粋
先程のwikiから抜粋していきます。(ネット右翼 – Wikipedia)
右翼団体同血社会長・河原博史は、ネット右翼の排外主義・人種差別的な行動や発言に対して「ある民族を自分たちより劣等とみなしたうえで、自らの国は素晴らしいというのは、彼らが嫌いな中華思想に代表される自民族中心主義にほかならない」と非難した
日本国体学会理事で靖国神社崇敬奉賛会青年部「あさなぎ」元理事の金子宗徳は、保守・右翼の立場から「ネトウヨや安倍信者にしても、我々とは何か違う。率直に言わせてもらえば、『軽い』なと」「保守的で素直な人が多かったけれども、自分の生まれ育った社会に根源的な違和感がない。悪いリベラル・左翼によって、すばらしい日本の国が汚されているという単純な図式に基づいて活動をしている。なぜ現状に対してそこまで肯定的になれるのか、悪いのは左翼だけなのか、どうにも理解できませんでした」と主張している
自民党衆議院議員を務めた加藤紘一も、「従来の民族系右翼とは異なる側面を感じる。私たちがそもそも、家族や地域社会、職場とのつながりを断ち切られ、糸のきれた風船のようになってしまっているのではないか。そういう状態にあれば、隣国との闘争を煽ろうとする過激なナショナリズムになびく人々が出てきても不思議ではない。」と述べている
代表的なものを引用しましたが、上記の批判には以下のような共通点があります。
- 特定の思想や国家を敵視して、それが悪だと単純な図式を信じ込む
- 思想的に浅い、軽い
- 大衆人(オルテガのいうMass Man)である
右派からのネトウヨ批判の共通点
右派からのネトウヨ評、ネトウヨ批判について、もう少し掘り下げてみましょう。
- 特定の思想や国家を敵視して、それが悪だと単純な図式を信じ込む
- 思想的に浅い、軽い
- 大衆人(オルテガのいうMass Man)である
先程あげた共通点ですが、1~3の根底に流れる要素があることに気が付きます。グローバリズムを論じる際によく出てくる、原子論的個人(個人のアトム化)にピッタリと、1~3は当てはまるのです。
原子論的個人とはなにか? 非常に簡単にいえば、サハラ砂漠の砂のような存在です。風が吹けばあっちにサラサラ、違う方向に吹けばこっちへサラサラと流れる、主体とつながりがない個人と理解してもらえると良いと思います。
先程引用した加藤紘一さんの「私たちがそもそも、家族や地域社会、職場とのつながりを断ち切られ、糸のきれた風船のようになってしまっているのではないか」はまさに、原子論的個人を表現していると思われます。
ネトウヨの定義論
サハラ砂漠の砂の1粒にはアイディンティティがありません。しかし我々は人間ですから、アイディンティティが失われやすいこの時代に、アイディンティティを求めます。
一般的な労働者は労働時間も多く、勉強に割く時間は限られています。したがって、わかりやすい図式に、自身のアイディンティティの補完を、一部の人達は求めるのではないか? と思います。
もっともわかりやすいのは、権威と敵勢力(架空でも)の明確化です。
在日朝鮮人のせいだ、メディアは在日朝鮮人に乗っ取られているのだ、的なフィクションです。権威は安倍政権、嫌韓本の著者、嫌韓有名ブログ等々だろうと思います。
「中韓、在日朝鮮人、メディア、左翼などを敵設定して、優越感と使命感に浸る。その背景には、権威(嫌韓本や政治家のネトウヨ的言動、有名ブログ)でアイディンティティを補完したいという欲求がある」という全体論が、ネトウヨの定義なのではないか? と思います。
アイディンティティの補完については、後述します。
なぜ人々がネトウヨ化するのか
グローバル化や構造改革・規制緩和は、例えば雇用の流動性などで論じられるように、人間を合理的経済人とみなします。
合理的経済人とは、すべての行動・価値判断が金だけで決まる、機械のような個人です。
必然的にグローバル化、構造改革・規制緩和路線は、国民同士の連帯やつながりを破壊し、国民のアイディンティティに重大なダメージを与えます。
このような社会環境は、先程論じた原子論的個人を生み出すに至ります。
wikiによればネット右翼という自称――当初は他称ではなく、自称だった――が出てきたのは、奇しくも1990年代後半だそうです。
1990年代といえば日本が、グローバリズム・新自由主義を輸入した時期とも一致します。
ネトウヨが思想的に軽い、浅いという背景には、失われていくアイディンティティを求めているだけ、という要素があるのかもしれません。
ネトウヨの行動と現実の否認
現実の日本は、失われた20年で凋落著しく、現実を直視することはなかなかしんどい作業です。
ゆえに、「フィクションの敵(左翼、メディア、在日朝鮮人、中韓等々)」を仕立て上げ、自分たちが戦うというストーリーを信じ込むことで、自己のアイディンティティを保とうとしているのではないでしょうか?
上記は現実の否認=現実逃避です。したがってネトウヨと呼ばれる層から、日本に有益な政策、ないし日本に有害であろう政策への批判が、なかなか出てこないのもうなずけます。
※2014年、2018年の入管法規制緩和(移民拡大)は、ネトウヨこそが批判するべき政策でした。
現実の否認(現実逃避)はイコールで、主張がフィクションになることを示します。したがって、デマも多くなるのは必然です。
自己のアイディンティティの補完には、権威の活用もあります。この場合、自己の主張の補完としての権威ではなく、自己のアイディンティティの補完ですので、権威と一体化することが求められます。
安倍政権がその権威と仮定してみると、ネトウヨが安倍政権に対して、批判を向けない理由も辻褄がいます。
※上述した通り、有名ブログ、まとめサイト、嫌韓本等々。いくつかのバリエーションは存在します。
若くないネトウヨが多い背景
現在、高齢者がネトウヨ化する現象も起きているようです。
増加する高齢者ネトウヨ。若者よりヤバい“リアルな行動力” | 日刊SPA!
なぜ起きた?弁護士への大量懲戒請求 – NHK クローズアップ現代+
一般的には「高齢者は暇もあり、読んでいる本の中に嫌韓本が入っていたから」という理由付けがされますが、本当にそれだけでしょうか?
まだネトウヨの研究は進んでおらず、諸説あるのは承知しています。
しかしあえて類推します。
やはりここでも、キーワードは失われた20年になります。ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ|日刊ゲンダイDIGITALによると、ネトウヨの年齢層はおおよそ、40代~50代が主力という見解もあります。
私もおおよそ妥当な見解だと思います。
40代~50代の層は、社会人になってすぐに失われた20年に突入した層でもあります。原子論的個人に陥ったとしても、不思議はありません。
また60代以上については、認知不協和が生じていると解釈しています。
つまり、60代以上は自分たちが中心となって構造改革、グローバル化などを肯定してきた方が多い世代です。現実は失われた20年ですが、自分たち中心世代の過ちは認められない。
したがって「自分たちではない、誰かのせいにしたい」と思っても不思議はありません。
中韓のせい、メディアのせい、と思えば自分たちの責任はなかったことになります。
※60代以上すべてがそうだ、というのではありません。
本稿のまとめと、ネトウヨの定義
- ネトウヨの定義は、原子論的個人であり、現実否認のために愛国、保守を自称したり、嫌韓、嫌中をしたりする人たち。権威でアイディンティティを補完する=権威主義的
- ネトウヨ化の背景は、アイディンティティの喪失と、補完したいという感情
- 権威――例えば安倍政権――とアイディンティティを一体化(補完)させる=権威を批判できなくなる
- 失われた20年という現実を否認=主張がフィクションにならざるを得ない=デマが多くなる
- 高齢者ほど、失われた20年への現実否認が強くなる? =高齢者のネトウヨ化か?
筆者のネトウヨ論と日本の行く先
ネトウヨを「アイディンティティを保つための現実の否認(現実逃避)」と論じましたが、じつはこれはネトウヨのみの現象ではありません。
単にネトウヨと呼ばれる層が、目立つだけという印象があります。
確かにネトウヨに私は、良い印象を持っていません。同時に、現在の日本全体を見渡すと、緊縮財政・全体主義が蔓延していることが理解できます。
緊縮財政・全体主義もまた「日本に財政問題は存在しない」という事実を、否認しているのです=日本は財政破綻するというフィクション・デマ。
私の興味範囲にネトウヨも入りますが、それは現在の日本全体の「現実の否認(現実逃避)」を、非常に端的に表す存在がネトウヨだから、というのが理由です。
ネトウヨを批判している人で、緊縮財政が正義だと信じている人たちも、ネトウヨと同じ性質を持っているのです。フィクション・デマの性質が、ネトウヨ的なものから、財政的なものに変化しているだけなのです。
日本全体の矛盾や、日本の現状を深く考えたい方は、この2冊。
純粋に・・、『不満』か、『不安』か、『不幸』か・・、もしくはそれらが複合的にまじりあっているか、もしくは全部か・・・、が、(似非)ネット右翼になる原因の1つではないかとも思いますね・・・。(左記で似非ネット右翼となぜ書いたかと言いますと、桜井誠さんみたいな人はガチもんのネット右翼で、まとめサイトにすくってるような人は、たぶん、7割がたかそれ以上は、なんちゃってのネット右翼だと自分は思っているからです。そして闇が深いのは、似非もんのネット右翼の方だとも思っているからです)
中韓在日陰謀論者もそうですし、ユダヤ陰謀論者もそうですし・・・。
上記の3点がからまりあって、それらの陰謀論者を生むのではないでしょうか。
(最近では、経済問題絶対論破してやるマンとかも、そうなのかもしれません。)
負の感情がこもってくると・・、正義の心を求める、的な・・・?
この場合の正義の心とは、この世の邪悪な企てに反抗する正義の自分(というストーリー)です。
絶対に正しい自分が、絶対に間違っているやつを成敗するという絶対正義のストーリーです。
それが、みずからに積もっている負の心を中和するのに役立っているんですかね・・・・。
自分自身の負の心・感情が強ければ強いほど、それを中和するために、ゆがんだ正義の心が強くなるのかもしれません。
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だから、安倍批判者内でも、たまに、化ける人間がでるのでしょう。
その人物は、負の心が強かったからとかなんとかで(たぶんきっと)・・・。
自分の負を中和するための正義では、これはいけないんでしょう。
自分ではなく、社会の歪みを糺したいという全うな、正(しい)義(ぎ)の心が必要なんでしょう。
これは、自分達(経世済民陣営)もおちいりやすいものなのでしょう。(安倍批判者側だったものが化けた過去の例を鑑みますに・・)
これは、自分の負を中和するためだけの正義なのか・・?
これは、本当に、社会の歪みを糺すための正しい義なのか・・・?
それを、我々経世済民陣営は、常に疑問に思っていた方が良いのでしょうね・・・。
自分達の為にも・・・・。
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その安倍批判は自分の負の感情を中和するための歪んだ正義なのか・・。
それとも社会の歪みを糺すための、正義(正しい義)なのか・・?
これは『正義』のため、自分自身ではもしかすると確認しずらいかもしれませんが・・、常に、自問自答する必要はあるかもしれませんね・・。
本当に、正義なのか、正義に酔ってるだけなのか・・・。
私も・・。
狂人(歪んだ正義の味方)は自分が常人(正しい義の持ち主)だと、さほどは疑わないでしょうからね・・。・・。
(まあ、まだ、上記の考えは、考えがまとまりきってはいないですが・・)
>狂人(歪んだ正義の味方)は自分が常人(正しい義の持ち主)だと、さほどは疑わないでしょうからね・・。
これは多分事実で、だから政治・経済議論がネットで嫌いになった理由 ブロガーの正しい時間の使い方と、私なんかはなってしまいます。
少々過激ですが「議論をすれば、正しい解が導き出せる」というのは、幻想じゃないかなと。
フリードリヒ・リストにしても、センメルヴェイスにしても、「正しいことを主張していたのに、最後は非業の死を遂げている」のですし。
※センメルヴェイス反射:手を消毒したら、母子の出産で好結果がでるとした、センメルヴェイスの事実の主張を、主流派の医師たちが否認した現象。医師たちは「消毒しなかったせいで、妊婦と子供を殺してきた」という事実に耐えきれなかった。
センメルヴェイスは正しいことをいったのに、議論で否認されたわけです。リストも果敢に議論しましたが、主流派から否定されました。
だからまぁ……「議論で正しい解が得られる」は幻想かなと。
※ネトウヨさんたちは、議論すらしてないかもしれない――という話は脇において(笑)
そうですね・・、ただ、センメルヴェイスは、正しい事実を事実と、センメルヴェイスが言い続けてくれた結果・・、彼は報われなかったかもしれませんが、彼の主張業績が、後世の多くの妊婦・幼子の命を救っていったのも事実ではないかと思います。
彼は、人類忠義の拡大に努めたとも解釈可能かとも思います。
彼の徳は、彼の名を後世まで偉人として残しました。
逆に、同時代には偉人とあがめられても、死後には悪魔として永遠に評価されるようなものもいます。(ヒトラーとか)(まあ、最近は、いくぶんかは、多角的な評価もされるようになりましたが)(ただまあ、近代最大の悪党的な評価はおそらく覆され切ることはないでしょう)
ですので、センメルヴェイスとかの場合は、これは、きっと、無駄か無駄じゃないかとかではないのではないかと思います。
ただ、これは少し脱線をしますが・・、先駆者はえてして不幸になりがちです。(吉田松陰とか)
しかして肝心なのは、誇りと信念・・でしょうか・・・・?
吉田松陰もセンメルヴェイスも、無駄か無駄じゃないかは、おそらく問題とはしなかったと思います。
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ただ、上記のようなことを書いていてなんですが・・、やはり、無駄かなと思う議論も、もちろんあります。
それは無駄と言うよりかは・・、正確に言えば・・、回数をいくらかさねても根本的には解決されない議論ということになるかもしれません。
それはつまりは・・、信念と信念のぶつかり合いです。
これが起こりやすいのは死刑や原発議論です。
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私は消極的死刑容認論者ですが、死刑反対論者から見れば消極的だろうがなんだろうが、とてもじゃないけど私のような人間の考えは容認できないと思います。
そしてさらに言ってしまえば私は、実は・・、理性的な判断を下せば死刑廃止の方が合理的で正しい判断だとも思ってもいます。ぶっちゃけて言うと。
なぜなら、人が人を殺して良い道理などないからです。
しかして私は死刑がある程度は必要と思っています。
それは私の被害者家族への心情的なものからです。
これは非合理的な考えですが、私は上記の自身の感情を否定することができません。
これはある意味では、一種の信仰と言っても過言ではないでしょう。
ですのでどうしても最終的には死刑反対論者とは対立をします。
これは信仰者同士の争いとも言えそうなもので、絶対に決着がつくことはありません。
絶対です。
ですので、この場合議論するとすれば、お互いの認識の違いをお互いに認識しあえれば、まだ成功かと思います。
なぜなら議論で論破するしないの問題ではないからです。
なぜなら、お互いがお互い自分達の方が正しいと信じているからです。
ですので、この場合の議論の大切な所はお互いの違いを認識しあうことだと思います。
まあ、決着があるとすれば・・、世論がどちらに傾くかどうか、でしょうか・・・?
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あとはまあ、議論が無駄だと思えば別に無理して議論はしなくて良いと思います。
ただ・・、議論をしないにしても、相手と自分の違いは認識すべきかと思います。
考えの違い、信仰の違いがしっかりと認識されていさえすれば・・、議論する必要はないかと思います。
上記の死刑議論みたいなかんじで。
私が死刑議論をした時も、考えの違いをしっかり認識できたので止(や)めました。(なぜなら私は、相手のことを私が絶対に論破できないことを知っていましたし、相手に私がほぼほぼ論破されることもないだろうなということも、これは知っていました(私も上に書きましたが、消極的死刑容認の考えは曲げられません・・))
どう違うかということを、これも正しく認識されさえすれば・・、これは正しい認識となるかと思います。
自分はどう思っていて、なおかつ相手はどう思っているかを正しく認識できれば良いと思います。
他人(ひと)と自分の違いを正しく認識することは、人付き合いでも大切・・・ですかね。どうですかね・・?
違いを正確に正しく認識することができれば、それはきっと、おそらく・・、100の議論を重ねるよりも有意義な瞬間かとも思います。(人の考えも理解できるし、自分の考えも深化させることができるかもしれないし)
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あとは・・、探求者同士の議論は、いがいと意味があるのではないかと思います。
知的探求者同士の議論ですね。
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あとは、無駄な議論の方で考えますと・・、認知的不協和の人物との議論なんかは、無駄かなとも思います・・・。
ネット右翼の認知的不協和も、深刻ですからね・・。
まあ将来、棄教する時の一助にでも、少しでもなれば言いなぐらいには思う時もありますが・・、ネット右翼と話すときは・・。(ですんで、焼け石に水感覚ではありますけども・・、話すときはたまあにあります。)
あと、もひとつつけ加えますと・・、絶対論破してやるマンとの議論なんかも、これは論外ですかね・・(笑)
先にも書きましたが、負(不幸・不満・不安)の心を中和するために、(歪んだ)正義の味方になろうとしているだけでしょうから、ね・・。
おっしゃる通りで、例えば議論にしても「理性で正解を導けない」場合が多々あります。
いくつかの正解がある場合、ないし1つも正解がない場合です。
私は死刑論はあまり論じたことがないので、どちらの立場でもないのですが(汗)
絶対論破してやるマンは、私も好きじゃないです(笑)