自由とはなんなのだろうか?
本日はベーシックなテーマの解説となります。今日のテーマはずばり”自由”についてです。この自由を論じる際には、当然ながら哲学も入ってきますが、できる限り平易に解説していきたいと思います。
まずは自由という言葉を、ネットの辞典から引いてみましょう。
自由(じゆう)とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っている[1]ことをいう。哲学用語。
自由 – Wikipedia
この定義だけを見ますと「なーんだ、そのままじゃん」と思われることでしょう。しかしそうは問屋がおろしません(笑)
自由とはさらに「積極的自由」と「消極的自由」に分かれます。この2つの自由はアイザイア・バーリンによってはじめて論じられました。
すごく簡単に申し上げますと、消極的自由とは「他者から干渉されない状態」です。放任と言い換えても良いでしょう。レッセ・フェール(フランス語でなすに任せよ)も消極的自由と言えます。
積極的自由とは「より良いものにしていく自由」と言えます。選択肢が存在する自由と言い換えても良いでしょう。消極的自由は理解しやすいのですが、積極的自由は理解しづらいですよね? 私もそうでした。
ですので伝統という面から積極的自由を見てみましょう。
伝統とは「過去の優れたものを踏まえること」ですので、消極的自由はありません。過去に干渉されるわけですから。しかし、過去の優れたものを、より優れたものに変化させる自由は存在します。これが積極的自由の意味なのです。
新自由主義=消極的自由、リベラリズムと保守主義=積極的自由
新自由主義や主流派経済学が採用しているのは、消極的自由です。規制緩和や市場原理主義、小さな政府、自由貿易などはすべて「政治が経済に干渉するな!」という消極的自由と言えます。
逆にリベラリズム(自由主義)には様々な潮流があり、一概に「これだ」とは断言できないのですが、おおよそ積極的自由を採用していると言えます。ただし……リベラリズムの場合は、政府や共同体や伝統といったものより、近代民主主義における基本的人権などを基幹に据えた、積極的自由なのです。
ゆえにリベラリズム(自由主義)はときとして、政府と対決する場合があるわけですね。だから政府に対して警戒感を抱くのが、リベラリズムの特徴と言えます。
保守主義はどうか? 保守主義も積極的自由を採用しています。リベラリズムとは逆に、共同体や伝統、文化、歴史、慣習などの自生的なものを基幹としているのです。ゆえにリベラリズムと保守主義は対立するわけですが、積極的自由という観点は実は同じであり、真に対決するべきはリベラリズム、保守主義ともに新自由主義であることがおわかりいただけるのではないか? と思います。
もう少し身近な例で、消極的自由と積極的自由を見てみましょう
消極的自由の本質は放任と上述しました。放任とは「政治はできるだけ関わるな」という意味でもあります。各種保険や制度、規制、こういったものを”干渉”と取るわけです。
例えば貴方はとある会社に入社しました。ここは消極的自由の会社。入社しても規則もなければ、与えられる仕事もありません。「干渉しないので、仕事も自分で作りなさい。売上がなければ給料もありません」という会社です。
つまり弱肉強食を前提条件として、消極的自由とは成り立つわけです。ね? 困りますよね?
逆に積極的自由は、和食の料理人の修行に似ている気がします。伝統で縛りますが、しかしそのかわりに食べ物と寮は用意されていて、安いながら定額の給料もあります。いろいろと礼儀作法からルールからありますが、しっかりして伝統を学びつつ、腕を上げて伝統より良いものを作る”自由”は認められているのです。
基本的人権の生存権や、日本国憲法25条の文面などはまさにこれでしょう。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
これは「ただ、生きていればOK」ではなく、「文化的な生活は保証される」上で「どのようにその人が、よりよく生きられるか」という自由を与えるものと解釈できます。
消極的自由の放任は、審美眼のなさの現れ
積極的自由の「より良く生きる自由」とは、道徳的観点を多分に含みます。何がその人にとって”より良いものなのか?”が道徳として問われるのです。
例えば卑近の例として、お見合い制度がなくなってきております。これは「恋愛に親も家族も干渉するな」という消極的自由の観点からの話でした。ところが、じつは恋愛で結ばれる”強者”、”勝ち組”は恋愛強者3割の法則。彼氏・彼女がいない方が多数派【コラム07】によると3割なんだそうです。
それ以外の”恋愛弱者、負け組”は、昔はお見合い制度ですくい上げてくれていたわけです。それがなくなったということで、結婚の晩婚化や少子高齢化が進むのは、ある意味で必然であったと言えるでしょう。ときには押し付けがましいのが、積極的自由につながるのですが……この”押し付けがましさ”や規制を道徳的に、どのように判断するのか? という審美眼が積極的自由には必要とされます。
逆に消極的自由とは本質が放任ですから、審美眼なんて必要ありませんし、道徳観すら必要ありません。哲学だって必要ない。だって放任で、本人次第なのですから。弱者や負け組は本人次第なんだから、自己責任でしょっ! というわけ。
しかし新自由主義や消極的自由が見逃しているのは、大半が勝てるなどということは、絶対にないという事実。常に1割~3割程度の勝ち組と、それ以外の負け組が放任ではどうしても出てしまうのです。ついでに……上位1%は超絶勝ち組です。
オキュパイウォールストリート運動、つまり99%の”我々”がウォール街を選挙せよ! という運動が起こったのも、この格差が我慢ならないところまで行ったからです。
そのうち日本でも、オキュパイラバー(Lover)運動なんてものが起こってもおかしくない? なんてね(笑)
最後に――福沢諭吉「自由は不自由の中にあり」
いかがでしたでしょうか? 本日は自由を消極的自由、積極的自由に分類して論じてみました。自由と一言で言うけれども、新自由主義の自由と、リベラリズムや保守主義の自由はずいぶんと意味が異なることを、ご理解いただけたのではないでしょうか?
現在は消極的自由にバランスが傾きすぎておりまして、これはすなわち格差社会の到来という結果になりますし、もうすでになっております。
最後に福沢諭吉の言葉を紹介したいと思います。
「自由は不自由の中にあり」
この言葉には様々な解説がありますが、端的にいえば積極的自由のことを指しているのだと、私は解釈しております。福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と説きました。
独立とはなにか? 国家の独立とは他国と対等になり、国家をより良いもので導ける志であり、それを独立というのではないでしょうか? これは”他国の干渉を受けない”ではなく、他国と対等であるという気概のための言葉のように思えます。他国の干渉を受けないなんて、不可能ですから。
つまり独立とは道徳的に善とされる状況を作り、干渉されながらも自身でより良いものを目指す、とう解釈なのではないか? と思います。
非常に不自由な状態ですが、よりよい自分や共同体を目指す”自由”がそこにあることを、福沢諭吉は説きたかったのではないか? それはまさに、積極的自由そのものでありましょう。
>空言ばかりが溢れる世の中ですが、空言を拒否する程度の自由は、持っていたいなと。
先の記事のヤンさんのコメントですが・・、上記もやはり、『自由』ですね。
これは、心の自由でしょうか。
自分の心そのものが、なにものにもしばられない・・、というか・・・。
自由自在、的なものかもしれません。
仏教的概念ですと、こんな感じになるとのことです。
↓ ↓ ↓
「自由」について
http://www.shimars.co.jp/blog/201511_post_70.html
この場合・・、我々にとっての法灯明とは、『経世済民』でしょうか。
仏教はあまり詳しくないので、はじめて自灯明、法灯明という言葉を知りました。ブッダは偉大な哲学者でもあったのですね。
佐藤健志さん解説のシュペングラーによると、「人は役目を果たし、運命を受け入れる自由を持っている」のだそうで、できればそうありたいなと。
我々にとっての法灯明は経世済民かも知れませんね。他にも共同体、文化などもそうかも知れません。