人材開国・多文化共生という恥ずかしい言葉-開国とはじつは屈辱的だった?

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「人材開国」だってさ

外国人労働者は「移民」ではないのか 安倍政権の奇妙な「新在留資格」(JPPress 池田信夫)

 池田信夫さんの経済観は新自由主義的であり、私としては全く共感できるところがないどころか反論ばかりしたくなるのですが、上記の記事によるとマスメディアは「人材開国」という言葉を使用しているようです。

※2ページ目参照

 私はちょっと移民関連の記事で「人材開国」という言葉は目にしたことがないので、池田信夫さんの脳内だけの話かも?と思いググってみましたら、確かに日経新聞などが使用しているようです。

 人材開国 「先輩」シンガポールも悩んでいる(日経)

 門戸ひらくだけでは… 人材開国、選ばれる知恵(日経)

 本日は「人材開国」「多文化共生」などの言葉の欺瞞について論じたいと思います。池田信夫さんの経済観などは本日は論じませんのであしからず(笑)

 まずこの「開国」という言葉ですが、おそらく明治維新がおこり、その後に日本は明治政府のもとで近代国家として歩み始めたことを指しているのだと思います。

 私はこの「開国」という言葉には、「遅れていた日本が、外国によって開国させられ、近代国家にしていただいたのだ!」という意味合いをどうしても感じてしまいます。

 まずはざっと明治維新の既略と構造についてなのですが、一般的に持たれているイメージはこうでしょう。

 幕末に黒船に危機感をあらわにした維新志士たちが立ち上がり、坂本龍馬を筆頭として活躍して薩長同盟を成立させ、そして古い体制である江戸幕府から大政奉還をさせ、無血にて維新を成し遂げた。

 物語としてはたしかに面白くはあるのです。私も明治維新のことについては興味がありましたのでいろいろと調べたり、本を買って読んでみたりいたしました。

 まず第一に非常に驚くべき事実ですが、江戸幕府においても近代化の構想はあったということ。蒸気船などを購入したのは江戸幕府ですし、鉄道施設の構想だって存在しました。幕軍だって近代化しておりましたしね。

 第二に一言に「維新志士」とひとくくりにしますけれども、様々な主張的対立が倒幕、佐幕とわず存在していたこと。つまり「非戦論vs主戦論」「開国vs鎖国」は倒幕派、佐幕派のどちら側にも存在したわけです。

 明治政府の「臥薪嘗胆」「富国強兵」という言葉に見て取れる通り、明治政府の方針は「当面は非戦論で我慢する。その間に近代化して力をつけて尊皇攘夷」というものでありました。

 第三に明治政府の初期は江戸幕府のほうがまだマシだったんじゃないか?と思えるほどに、不安定な綱渡りを強いられたこと。歴史にifはありませんけれども、江戸幕府という体制ならばもしかしたら最初のスタートはもう少し安定していたかもれない可能性はあります。

 確かに江戸幕府はそれまでの伝統、武士階級への義理、そういったものが存在したので明治政府ほどにドラスティックに近代化が進まなかった可能性もありますけれども、むしろそれは漸進的に近代化を進めるという意味においてはありだったかもしれない。

 明治維新の本の著者によったら「幕末志士はたんなるテロリスト」と断じる方までいます。

 少なくとも明治維新というものを「完全な正義」とみなすのは違うんじゃないか?と私は思っております。

 そして本題ですが、日本が開国させられたのは「江戸幕府のとき」でありまして、黒船による砲艦外交に屈した歴史にほかならないのです。決して「明治維新がなって、日本は世界に向けて近代的に開国をした!」なんてことではありません。

 この「開国の歴史」は「屈辱」であって、「誇れるもの」ではないわけです。

 ところが日経新聞などは「人材開国!」などと移民拡大をさも「開国は良いことです!」的に書いちゃうわけですね。

 やめてほしいものです。

多文化共生という「現実的に不可能なフィクション」

 欧州でも2015年辺りでしょうか?盛んに「多文化共生!」というスローガンが掲げられました。欧州においてこの意味は「雑多ないろいろな民族、とくにイスラム系などと共生しましょう」という意味でありますね。

 日本に置き換えてみれば、必然的に地理として「中国、韓国、アジア諸国」の順で移民が多くなりそうですので、上記をそれに置き換えていただければ言葉の意味として理解でき、また多くの方が「・・・・・マジで?無理やろ?」と直感的に思うんじゃないでしょうか?

 まず文化というのは慣習や習俗、常識、伝統的な考え方(つまり民族性)や宗教を含むものです。日本人には日本人なりの文化、中国人には中国人なりの文化というものが存在し、それは自身で思っているよりも深く自分に根付くものであります。

 欧州の例を見たって「お互いの文化を認めあって、譲り合う」なんてことは無理であったという結果がもうすでに出ておりまして、日本においても移民拡大をしていけばそのうちに欧州と同じ結果になることは明白。つまり衝突が起きていくであろうと思われます。

 これは「文化というものが、人間のアイディンティティにまで関わるから」当然なんですね。

 逆説的に文化というものが存在するので、文化同士の衝突を避けるために「国家」という共同体、垣根が存在するわけです。ある程度文化を共有している国民で、共同体を形成するというわけです。

 欧州で起きている数々の衝突の事実と、そして文化と国家の構造を理解するものであれば「多文化共生」などというのはフィクションにしか過ぎないと理解できるはずです。

※もっとも現在の日本の外国人労働者数や移民数は2%程度らしいので、”まだ”それほど目立った衝突が起きているわけではありませんが。

恥ずかしい言葉

 「開国」というのは「砲艦外交に屈した江戸幕府によるものであった」わけで、これは歴史的に見て日本人からすると「屈辱」のはずでありまして、それをさも良い言葉のように使用するというのは「恥ずかしいこと」ではないでしょうかね?

 また「多文化共生」というのはもはや欧州にて結果が出ており、そして構造上も無理難題の不可能な話でありましょうから、いわば誇大妄想やフィクションでありましょう。すなわちやはり「恥ずかしいこと」であります。

 驚くべきは日経新聞という大新聞が、臆面もなくこのような言葉を使用していることであり、そして多くの日本人がそれを「恥ずかしい」と思わないことではないでしょうか?いや、むしろ「開国」という言葉に良い響きすら感じる人が多いように思います。

 ちなみに・・・こういう議論をすると「あれ?ヤンはLGBTに関しては多様性!とかいうのに、多文化共生には反対なの?」という的はずれな反論があることでしょう。

 ちなみに私、LGBTに関して「多様性を認めろ!」と主張したことはないですからね?「そこに(ここに)存在するんだから、認めてもらわなきゃ困っちゃう」的なことは何回か書きましたけれども。

 まぁそれは脇に置きまして・・・よしんば多様性という言葉を使用するとしても、それは「国内」「共同体内」の話であり、異なる共同体からくる外国人の数を増やして衝突しようとは思いません。

 そのための国家・国境という垣根であり、その国家内においてその国民は自らの人権や権利、もしくは政治や運動をしていけばよいのです。またその文化を守っていけばよいわけです。

※先日も行いましたリベラル・ナショナリズムの議論になります。

 最後に・・・・冒頭に上げた池田信夫さんの記事を読んでみましたけれども、まあ各論としては「え~そこかよ!」とか「いやいやいやいや・・・」と思う部分がかなりあるのですけれども、最後の締めはなかなかかと思います。

 私は移民を排斥しろといっているのではない。移民を受け入れるなら、それなりの覚悟をもって、日本国民として永住権を与えるべきだといっているのだ。逆にいうと、日本国民になれない労働者を中途半端に受け入れるべきではない。

「移民ではない」という建て前で安易に外国人労働者の受け入れを増やすと、なし崩しに長期在留が増え、文化的な衝突が起こるおそれが強い。そうなると後戻りはできない、というのが欧米の教訓である。

 要するに「もし受け入れるなら、アメリカ式にして『日本人になること』を条件にしろ」と主張しておりまして、なるほどなと。まあそれはそれで、一理くらいはあるだろうと思います。

 私はそもそも論として、移民拡大には反対で、日本が好きで日本人になりたい人だけ厳格な条件のもとに帰化すればいいんじゃね?という主張ですが。

 まとめとしては・・・「日経新聞には恥ずかしい記事が存在する」ということで、お後がよろしいようで(笑)

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この記事を書いた人

「難しいこともわかりやすく」政治・経済コラムをメインに発信。
2019年まで16年間自営業→Webライターに転身。
日本で数少ない現代貨幣理論の論者(MMTer)。
左右や保守・革新にこだわらず「庶民(自分含む)のためになる政治経済情報」をブログで掲載。

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