吉田松陰への評価は、色々と分かれるところです。しかし日本の、稀有な思想家であった。これは万人が認めるところです。
中野剛志さんは会沢正志斎の新論を見て、志士たらんとTPP反対運動を展開されたようです。
会沢正志斎の新論とは、維新志士のバイブルです。読んでなかったら、モグリとすら言われたようです。
同じく維新志士が大きく影響を受けた、吉田松陰もまた傑物でした。
私は吉田松陰に詳しくありませんから、彼の言葉を引いて、自分なりに解説していきます。
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」は、「本当の誠実さは、行動を伴う。本当に誠実であろうとするなら、行動しなさい」という意味です。
やらぬ善よりやる偽善とは、よく言ったものです。
またこの言葉から、吉田松陰は実践を重んじてたことが伺い知れます。
あれこれと机上で理論を組み立てるより、行動して得られる経験のほうが重要だったのでしょう。
じつに行動派の、吉田松陰らしい言葉です。
立志尚特異
立志尚特異。「立志したなら、人と異なることを恐れてはいけない」と吉田松陰は説きます。
この言葉から、吉田松陰はエッジの効いた人物像と思いがちです。
しかし吉田松陰の最初の弟子、金子重乃助は吉田松陰の第一印象を「婦人のように温和な人」と思ったようです。
対して吉田松陰は、このように答えます。
「婦人。そうですか。私はそのような自分であることを望み、そのように自分を教育しているのです。人生において大事をなさんとする者は、和気がなければなりませぬ。温然たること、婦人、好女のごとし」
温和でありながら、人と異なることも恐れない。大変なことです。
「人と違うこと、エッジの効いてることを笠に着る人」がいます。自分のカリスマ性を、演出したいのでしょう。
「狂の精神」を謳った吉田松陰は、決してそうではありませんでした。
仁とは人なり
「仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし」
仁徳とは「他人に対する思いやり」だそうです。禽獣とは「獣」です。
他人に対する思いやりのない行動は、人の行動ではない。そう吉田松陰は説きます。
オルテガは大衆人を「野蛮性・原始性を持った者」として批判します。思いやりをなくした者が、大衆人に堕するのです。
吉田松陰が説いた「禽獣に近き是なり」と似てませんか?
体は私なり、心は公なり
「体は私なり、心は公なり。公を役にして私に殉う者を小人と為す」もすごい名言です。訳すれば「体は私情、でも心は公徳。公を仕事にして、自分の欲望(私情)に従うものは小人だ」です。
現在の政治家や有識者に「聞かせてあげたい言葉」です。あと竹中平蔵や橋下徹にも、聞かせてあげたいです(笑)
また「体は私なり」に、吉田松陰の深みも感じます。体は性欲だってあります。また殴られれば痛い。あまりに「私」なのです。
吉田松陰は、心と活力を信じた思想家でもありました。
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」もすごい言葉です。
吉田松陰は日本の思想家として、不朽です。
この言葉で、太平洋戦争の特攻隊を思い出しました。彼らは不朽となりました。歴史書に、必ず書かれる存在です。
軍事学的に、特攻隊の意味は無きに等しかった。日本の敗戦を、少し先延ばしにしただけです。
近代人権思想としても、特攻という作戦は許されざるものです。
それでもなお、日本人は特攻隊を不朽とします。
後世から「理性的ではない、愚かな作戦だった」というのは簡単でしょう。強制された特攻隊員もいたでしょう。手紙も遺書も、検閲されたでしょう。
しかし誰が「体(私情)を押し殺し、心(公)を全うした」を、否定できるでしょう。
吉田松陰は会沢正志斎に教えを請う。ここが日本の保守の原点では?
明治維新は、ある種の革命、ないし革新です。江戸幕府300年が、ひっくり返りました。
日本の近代化の、象徴的な出来事でした。
保守主義が近代とともに生まれたのなら、日本において吉田松陰、会沢正志斎は参考にするべき「保守主義者」ではないでしょうか。
吉田松陰は会沢正志斎に、何度か面会してます。「東北遊日記」からは「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されています。
最後に吉田松陰の、名言を紹介して終わります。
先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。
吉田松陰の言葉は、現代の我々に何を問いかけるのか。
お邪魔いたしますです。
> 「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」は、「本当の誠実さは、行動を伴う。本当に誠実であろうとするなら、行動しなさい」という意味です。
おいらは、知識欲を満たして現実逃避してるのかもです。彷徨いながらも、思想や哲学は己と向き合わなければいけなくなる。そう思って避けてきました。
自問自答を繰り返して、引用の言葉に似たものにたどり着くと後悔が芽生えました。毒親をぶん殴って止めた方が「誠実」だったのではないか。毒親が相続したときの重加算税はでかくて、後のアパート経営を圧迫しました。
引っかかってます。シュペングラーは解であり宿題なのかも知れないです。
マクロの世界になぞらえると、独裁者との戦いみたいです。相似なのでしょう。
「志」は結び付きで伝わり、マクロになる程に希薄になるのかもです。
住んでいるアパートの隣の棟の屋根が台風の風で飛びました。同じ所有者なのですが、狭くて選ばなかった棟です。
売ってしまったアパートは無事なのだろうかと、作業の音を聞きながら、ぼんやり考えています。
私も知的好奇心自体が目的になっている部分は、ありますよ~。
「生きてりゃ丸儲け」くらいの、気軽さも必要かもしれませんね。
>保守主義が近代とともに生まれたのなら、日本において吉田松陰、会沢正志斎は参考にするべき「保守主義者」ではないでしょうか。
会沢正志斎は後期水戸学派の人物だし、その影響を大いに受けているのが吉田松陰です。なので、ここでいう「保守主義」とは、日本古来の伝統や国柄を何よりも重視する国粋主義・国家主義という意味を指しているのでしょうか?
なお、エドマンド・バーク以降の西欧流の保守思想(不可知論・社会有機体論・漸進的改革)はこれとは全く異質のもので、以前にも述べた通り、明治維新以来今日に至るまで、我が国にはついに一度も根付きませんでした。
したがって、吉田松陰の思想的影響を受けた長州藩士たちが武力討幕を成し遂げ、彼の思想が明治維新以降の急進的改革と対外膨張政策のバックボーンとなったことを考えると、吉田松陰らは、決して漸進改革的な保守主義者ではなく、急進改革派のナショナリストであったとみるのが正確だと思います。
この解釈も、間違っていないと考えます。
江戸幕府も近代化を進めてましたし、公武合体論などが一番穏当であったのでは? と私も思います。
一方で江戸幕府がそのまま治めた場合、中央集権化がなかなか進まなかったかも知れません。
難しいですよね。このへんは。
自民党と共産党と長州の遺伝子
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/709f4fe2394587affceda5fb808760c9
代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternatives
日本共産党の指導者だった宮本顕治氏は、吉田松陰を尊敬していたようです。
今の日本人で松陰の精神をもっとも胸に刻んでいる人たちは、案外日本共産党の方々かもしれません。
嫌味な言い方をすると、共産党は、吉田松陰の精神を胸に刻み過ぎてしまったような気もします。安倍首相も同じです。日本人はやっぱりバランス感覚が乏しいのでしょう。そこは大きな反省点です。
自民党と共産党と長州の遺伝子
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/709f4fe2394587affceda5fb808760c9
代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternatives
日本共産党の指導者だった宮本顕治氏は、吉田松陰を尊敬していたようです。
今の日本人で松陰の精神をもっとも胸に刻んでいる人たちは、案外日本共産党の方々かもしれません。
嫌味な言い方をすると、共産党は、吉田松陰の精神を胸に刻み過ぎてしまったような気もします。安倍首相も同じです。日本人はやっぱりバランス感覚が乏しいのでしょう。
なかなか興味深い記事ですね。
>日本人はやっぱりバランス感覚が乏しいのでしょう。
イギリスのバランス感覚は、すごいものがありますよね。
一概には言えないのですが、アメリカも結構、極端から極端に振れますし(笑)フランス革命などもそうでした。
必要以上に卑下することはないものの、バランスには気をつけたいところです。
>しかし誰が「体(私情)を押し殺し、心(公)を全うした」を、否定できるでしょう。
だから、特攻隊は汚してはいけないのです。
彼等の作戦は無謀であり、作戦立案としては下の下の作戦です。
このような非人道的な作戦は必ずやこれっきりにしなければなりませんし、このようなことを強いるまで日本を危機的状況に今後陥らせないようにしなければなりません。
しかして、彼等の誇りを汚してはいけないのです。
そうしてしまうと、本当に彼等の死は無駄死になってしまうからです。
無駄死にだけど、無駄死にではないのです。
生きた我々は彼等の死を顕彰しなければならないのです。
彼等の生に、意味を持たさなければならないのです。
そうでなければ、彼等の散らした魂は、それこそ本当に無駄になってしまうではないですか!
その上で、二度とこのような反人道的な作戦が実行されないように、我々は努めなければならないのです。
そして私は、だからこそ、表現の不自由展の左翼共が嫌いです。
そして、彼等の死の意味を、おそらくはそこまで理解していない右翼も多そうなのにもがっかりはしますね。(8月15日に靖国でコスプレゴッコしてるような人らなんかは、おそらくそうでしょうね・・)
我々は本来は、黙って、あの人々に黙とうしなければならないのです。
尊敬ではなく、畏敬の念を抱きながら・・。
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>先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。
今のご時世なら特に、経済学者とか呼ばれてるような人にはほんとによく聞かせたい言葉ですね・・。
情動主義と言われそうですが、私も特攻隊員の話を見たり読んだりすると、なんとも言えない感情に襲われます。
表現の不自由展はぶっちゃけ、全くフォローしてなくて(汗)
いくつか記事を見たのですが、百花繚乱の大論争だったみたいですね。