本稿はやや辛辣になる、と私自身も書き始めから理解してます。が……やはり経済学者の”学”とは「この程度なのか」と失笑を禁じ得ないのも事実です。
MMT理論とその批判者がともに間違っているのはどこか? | 小幡 績 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトという記事が掲載されました。
最近では私は、現代貨幣理論(MMT)批判の記事の筆者をまず、ググるくせがついています。
タイトルによれば「現代貨幣理論(MMT)も、批判者も間違っている」としています。さも中立を装い、中身は「的はずれな現代貨幣理論(MMT)批判」だと断言できるでしょう。
今まで書いてきた、的外れの現代貨幣理論(MMT)批判の箇条書き
- 民主主義で財政政策が、コントロールできなくなる(主流の間違い)
- 内生的貨幣供給説で話しているのに、外生的貨幣供給説の理論で批判してくる(外生的貨幣供給説の正しさの証明が必要)
- 藁人形論法で「いくらでも支出できる!」と勘違いしている(インフレ制約があるのはご承知の通り)
- 資源の有効活用ができなくなる!(新しい。が的外れ)
- 結局、現代貨幣理論(MMT)批判のほとんどは、現代貨幣理論(MMT)をそもそも理解してない(理解していないのに、物事の成否や理非の判断はできない)
じつは冒頭の記事は、この5つの合わせ技にしか過ぎないのです。が……書いている本人は、的外れとは思っておられないようです。
それぞれ、記事を引用しながら指摘していきましょう。
資源の有効活用のためには、財政出動は「有効ではない」かも知れない?
まずMMT理論とその批判者がともに間違っているのはどこか? | 小幡 績 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトの、もっとも反論されるべき点を取り上げましょう。
MMT理論が間違っているのは、財政支出が常に有効かつ効率的だ、という前提に立っていることだ。
ワイズスペンディング、意味のある財政支出であれば、インフレにならないかぎりいくらでもやっていい、ということにはならず、財政支出のコストはインフレだけでなく、ほかの有効な支出を機会を奪うことにあり、そちらのコストのほうが重要だ。これが一番のポイントだ。
すなわち、財政支出で何を行うかが重要であり、それは政策同士の比較だけでなく、民間投資とどちらが社会、経済全体のために望ましいか、という観点がまったく抜け落ちている。財政に制約はないが、そのコストはインフレではなく、資源の有効活用という点で、いわゆるクラウディングアウトを起こしてしまう、という問題である。金利が上がらなければクラウディングアウトが起きていないと考えるのはナイーブで、低金利であっても、経済における投資可能金融資本は限定的であるから、民間投資と政府支出とどちらが望ましいか考える必要がある。
冒頭から、盛大に「だめだこりゃ」と思わされます。なぜか?
上記の引用は、端的にいえば赤線部分に主張が集約されるでしょう。
つまり「お金はプールにあって、限定されたものだ。だから政府が使えば、民間が使えなくなる」という考え方、つまり外生的貨幣供給説です。
有り体にいえば、商品貨幣論です。
上述しているように「2.内生的貨幣供給説で話しているのに、外生的貨幣供給説の理論で批判してくる(外生的貨幣供給説の正しさの証明が必要)」型の、現代貨幣理論(MMT)批判です。
しかし困ったことに、外生的貨幣供給説(商品貨幣論)が「正しい証拠」は、経済歴史学で存在しない。
これは「サプライ(供給)サイドの貨幣観が正しい証拠が、存在しない」ということです。
しかし21世紀の貨幣論(フェリクッス・マーティン)やイネスによれば、内生的貨幣供給説や信用貨幣論が、歴史的に使用されてきた貨幣の本質であるという証拠は、山のようにあります。
端的にいえば、証明も証拠もない仮説を持ち出して「だから現代貨幣理論(MMT)は間違っている!」と批判していることになります。
まず小幡績さんは、外生的貨幣供給説が「歴史的に使用されてきた、現代の金融構造もそうだ」という証明をしてはいかがでしょう?
藁人形論法を使った現代貨幣理論(MMT)批判の典型例
こちらはもっとひどいです。
さらに、この点でもっとも重要なのは、財政に制約は、従来言われているほどはないが、すなわち、単年度の財政赤字自体はそれほど気にすることはないが、制約がまったくない、ということはありえないという点である。すなわち、財政支出規模が100兆円程度である日本の場合、これを120兆円にすることは可能かもしれないが、やはり1000兆円の支出は無理であることは間違いない。この900兆円分を、今年支出するべきか、10年後から100年後にかけて10兆円ずつ追加支出するべきかは、そう簡単には判断できない。追加900兆円財政支出の異時点間の比較はできないのである。
この論法も、本当に経済学者か? と疑われるほど、変な話です。
現代貨幣理論(MMT)では「インフレ制約以外で、財政政策はいくらでもできる」とします。注意が必要ですが「やらなければならない」ではない、ということ。
さて、インフレになるかどうか? の観測もせずに「単年度で1000兆円を支出する」と、MMTerの誰が主張したのか?
観測しながら、調整するに決まっているでしょうに。
ご飯を食べるときに、お腹いっぱいかどうか? までは食べられますよね?
ご飯1膳か2膳なら可能だが、10膳になると比較できないのである! とか主張していて、恥ずかしくないのでしょうか。
将来世代につけを残さない? またそれか
MMTは今を生きる理論であり、今さえしのげばよい、という考え方なので、現在に強いバイアスがかかっているから、放っておくと過大に支出してしまうので、歯止めが必要だ。それを保守的に見積もるのが、赤字を出さない、ということであり、そのときのことはそのときの人々で責任を取る、現在のコストを将来に残さない、ということである。
1.民主主義で財政政策が、コントロールできなくなる(主流の間違い)がここで、出てきました。ブキャナンの「赤字の民主主義」理論の、変形版です。
ちなみにデフレで「過少に政府支出を制限しすぎる、新古典派経済学」という批判はないのでしょうか?
現実が「過少な政府支出」であることに目をつぶり、現代貨幣理論(MMT)を批判するというのは「拒食症で困っているのに、ちょっと食べたら医者が『太るぞ! ダメだ!』」といっているようなものです。
低金利で「資源配分とやらが壊れる」のだそうだ
低金利の時代に入ったとしても、市場で低金利に決まるということと、中央銀行に無理やり低金利、マイナス金利にさせる、というのはまったくことなる。
これと富士通総研の早川氏などは金利は重要、という言い方をしているのだが、もっと直截に言うと、異時点間の資源配分をあえて中央銀行にゆがめさせて、経済の持続可能性の最適な道を壊しているのである。
これは有名なアダム・スミスの「見えざる手」です。
つまり「政府が財政出動をすると、最適な資源配分にならない」「市場こそが、効率的に資源配分が可能なのだから、市場に全て任せておけ」というわけ。
この考え方の結果、一体何が起きたのか?
21世紀の貨幣論によれば、1854年にアイルランドでジャガイモの凶作が起きます。このとき、エコノミスト誌の社説では、「慈善こそが、イギリス人が犯す国民的過ちである」と掲載されました。
内容をいえばこうです。アダム・スミスは「市場こそが、社会の効率を最も高めると証明した。政府は市場に介入するのは、愚かな過ちだ。(したがって、アイルランドへは援助するべきではない)」
こうしてアイルランド人は見捨てられ、1854年から2年間の凶作で、大勢の餓死者が出たというのです。
デフレが20年間も放置されている日本も、同じ理論で「放置」されるのです。
現代貨幣理論(MMT)批判の愚かさと「ずうずうしさ」
冒頭で「現代貨幣理論(MMT)批判は5つの批判がある」として、以下を書きました。
- 民主主義で財政政策が、コントロールできなくなる(主流の間違い)
- 内生的貨幣供給説で話しているのに、外生的貨幣供給説の理論で批判してくる(外生的貨幣供給説の正しさの証明が必要)
- 藁人形論法で「いくらでも支出できる!」と勘違いしている(インフレ制約があるのはご承知の通り)
- 資源の有効活用ができなくなる!(新しい。が的外れ)
- 結局、現代貨幣理論(MMT)批判のほとんどは、現代貨幣理論(MMT)をそもそも理解してない(理解していないのに、物事の成否や理非の判断はできない)
経済学者である、小幡績さんの現代貨幣理論(MMT)批判は1~5の「単なる合わせ技」であり、すでに現代貨幣理論(MMT)によって「再反論されているものばかり」です。
目新しさも、理論的正当性も見当たらない、陳腐な記事との評価が妥当でしょう。
どうも主流派経済学者という生き物によれば、「日本のデフレは、市場の結果だから放置しておけ」が最適解であるそうです。
デフレの結果として、1998年から自殺者が1万人跳ね上がり、2010年までに十数万人以上が自殺に追い込まれたことは、彼らにとっては「資源配分の効率化」という言葉に収まるということでしょう。
その証拠に、主流派経済学から「デフレの処方箋」は示されたことがありません。
なんという愚かしさと、ずうずうしさでしょうか!!
現代貨幣理論(MMT)批判は「会社で、批判だけして責任を取らないやつ」と一緒
会社でたまに、なにか物事を進めようとすると、批判をするだけして「なにもしない人」っていませんか?
「そこまでいうなら、あなたがこれ進めてくださいよ」といえば「俺は、関係ない!」という人。
そのくせ、批判というよりいちゃもんばかり付ける人。
こんな人が1人いると、プロジェクトの進捗はガタガタ。真に受けると、なにも前に進まなくなります。
では主流派経済学者は? 私が見るに、上記の例と全く一緒です。
主流派経済学が、今まで現実の問題を、1つでも解決したことがありますか? じつは「ありません」が正解です。
常に余計なことをしてきただけ、という評価しか与えられません。
いざ、デフレ脱却できる理論が出てくれば、延々といちゃもんを付けてくる。
「批判だけして、責任を1つも取らないダメ社会人」と一緒なんですよ。小幡績さんも、記事を見る限りご同類でしょう。
現代貨幣理論(MMT)批判に、まっとうな論理的批判がないのは驚くべきことです。
それはそうでしょう。
明らかにしたように、主流派経済学の理論は「市場の効率性の盲信」です。アイルランドで凶作が発生し、飢饉になったとしても「助けるのは、市場の効率性からみて間違っている」のです。
こんな主流派経済学に、格差社会も貧困もワーキングプアも、解決できるはずがないのは自明。
商品貨幣論を生み出したジョン・ロック。市場の効率性を広めたアダム・スミス。この2人を盲信した主流派経済学。
さて、誰の罪が重いのか?
学問と名乗りながら、盲信を続けたもの。探求をしなかったものだと、私は思います。
しかし・・、ここ最近、(世間での)MMT関連の記事が増えましたね・・。
もちろん中心はこちらのかたが如く批判記事が中心ですが、新聞やネットニュースでも見るようになりました。
伝播に関する段階の、嘲笑→攻撃→普及(こんな感じでしたかねw)・・の攻撃段階までいちおう入りましたかね?
そう考えれば、日頃の皆さんの活動もそうですし、前回の三橋さん達によるケルトン教授の招聘も大きく影響してるのかもしれませんね。
もしくは、現実の貧困が仮想(旧態経済学)の想定をどんどん上回り始めたか・・・。
検索ボリュームも今年2月くらいから、一気に増えました(笑)
伝播の段階はあまり知らないのですが……批判記事を見ていると、既存経済学者の「必死さ」が見て取れます(笑)
「無視したいのに、無視できない!」という段階には、来ていると思います。
もっと波及して、国会でもバンバン取り上げられるようになればいいなぁと。
8月30日にはランダル・レイの「MMT入門」も発売されますし、私は読書の夏になりそうですヽ(=´▽`=)ノ
※21世紀の貨幣論を再読、グレーバーの負債論の購入など……いろいろ予定がいっぱいです。
経済には詳しくないのですが、やはり現代の主流派(新古典派)経済学はデフレ脱却には無力だとわかりました。ところで、日本が首尾よくデフレを脱却し、2%程度のマイルドなインフレを実現した場合、銀行預金の実質的な目減り額は相当なものになるでしょうか?定期預金金利(現状0.01%)がインフレ率を下回ることになれば、確実に目減りします。少子化とマクロ経済スライドで年金はほとんどあてにならないため、個人的に老後は金融資産(ほとんど銀行預金)を頼りに生活することになります。そうなると、インフレが一番の懸念材料になりますね。
確かに現在の金利のままだと、預金は実質的に価値減になりますね~。
一般的にインフレに対する資産運用としては、投信や株式、不動産などがあげられますが……これらもリスクは存在しますし。
※一応、政府が支出拡大してのインフレの場合、資産運用もうまくいく確率は上がるはずですが、絶対とは言えません。
どう支出拡大するか? 政府の方針次第なところはありますね。
私としては公共投資の他に、社会保障を強化するのがベターだと思うのですよ。
格差が広がり、低所得層も増えたので、手当が必要でしょうし。
小幡 績氏の記事のあまりのレベルの低さに、驚きをかくせずこのページにたどり着いた者です。
https://www.newsweekjapan.jp/obata/2020/03/post-42_1.php
氏の華麗なる経歴からしては、あまりにも論理展開が稚拙すぎ、
なぜこんな記事が書けるのかはなはだ疑問に思いこのページに至りました。
当サイトの記事を拝読し、氏のMMT批判が、何ら発展的、建設的な反論になっていないという点につきましては、理解致しました。経済学につきましては、最新の探求はしていないのですが、
アダム・スミスの「神の見えざる手」は、すでに金融資本家の「現代の「神」である「貨幣」の実質的な買収」および「人類の欲望による過度な競争環境」により、その機能は働くことができず、格差を生み出し続けるものと理解しております。さらに、IT革命により限界費用は、低減し続けている現在において、競争の論理は大きく変化していると考察しております。MMTにつきましては、改めて理解を深めてみようと思ったレベルの人間です。
さて、改めて、氏の
「やっぱり日本は終わりだ」の記事を読み込み、
好感を持つことができました。
https://www.newsweekjapan.jp/obata/2020/03/post-42_1.php
氏の結論である、「やっぱり日本は終わり」だという結論を支える
1.「子供の命、教育より生活を重視する親」
2.「そもそも、親が学校教育に期待していないこと」
3.「そして、氏自身の傲慢さ、頭の悪さ」
の3点。それぞれ、ロジックが飛んでいる点でした。
むしろ、親は、経済を支える合理的経済人であろうとし、合理的に学校教育というのものの便益を考え、子供の命を守ることとの両立をはかる合理的な判断をしているといえるのではないかと思います。
そのことと、「日本が終わり」という結論に、あまりの論理のつながりがなく、驚きました。。。
一方で、その自分自身を、頭が悪いと批判していることであり、そのことに好感が持てました。そして、Web記事のアクセスを集めるという点において、合理的で経済的な判断をされている氏にさらに、一貫性も感じ好感を持つことができました。
小幡績氏は経世済民陣営から、かなり評判が悪いようですね(笑)皆さん、ぼろかすにいいます(笑)
……まあ批判している私が、いえた話でもないのですが(汗)