最近は幼女戦記(ウェブ小説)にハマっていた
寝る前に何かを読むのが習慣なのですけれども、その何かに幼女戦記が最近は入り続けておりました。マニアックな軍事史および軍事学的要素、そしてその軍事学的要素に元サラリーマンのリバタリアン(新自由主義的、ちょっとだけ違う)が幼女として転生させた、存在Xという名の本人曰く悪魔への復讐を目指して生き残る、という転生軍事モノです。
全くもってクソッタレに面白いのです。夜更かししてしまうじゃないか!
なお時代背景は第一次、第二次大戦をごちゃまぜにしたような状況であり、唯一違うのは魔道士なる特殊な軍事要素が存在するということだけ。SEALsが魔導の力で空も飛べて、汎用性と破壊力と機動力に優れた兵器を持参している、というイメージでほとんど間違いないでしょう。
小説としての性質上、国家総力戦時代における国家主義と主人公のリバタリアニズムという対比で描いているのですが、主人公の性格もまたリバタリアニズム+超合理主義というまさに合理的経済人の様相を余すことなく呈していまして、魅力的でありながらわりと性格的にも非常識的に描かれています。
この主人公がよく口にするのが「人的資源の損耗だ」ということです。本日はこれをお題に、経済と軍事、そして双方の関わりを考証してみたいと思います。
経済から見る人的資源の損耗
じつは経済というのもその形態によっては、著しく人的資源の損耗、つまりは殉死者、犠牲者を出すという事実です。たとえば共産主義・全体主義であったソビエト連邦などはその例でありましょうし、専制国家であり自由主義経済を取り入れていない北朝鮮もその典型例でしょう。これは説明をせずともご理解いただけると思います。
しかしながら極度の自由主義経済を極めると、これまた莫大なる犠牲が出る可能性が高いというのが実のところなのです。
たとえば欧州のイタリアやギリシャなどは若者の失業率が非常に高いのですが、これは新自由主義経済の行き過ぎた結果の歪みであり、金融危機による信用縮小、これに伴うEUという形態における金融、財政政策の主権のなさが招いた結果であります。端的にいえば超格差社会といえましょう。
幼女戦記では追い詰められた帝国の末期、インスタントラーメンのごとく作られる軍人の練度の低さが問題視されますが、新自由主義経済における若者の高い失業率とはまさに「社会や仕事に対しての練度の低さ」を形成する大きな要因です。仕事のノウハウが積めないわけですね。
戦争も経済も人間の営みでありますから多くの共通点があります。つまり練度の低い人達が多くなれば、全体の運用として支障をきたすというわけです。
軍事において練度不足は即、生命の危機につながりますが、経済においての失業率も時には生命に関わるのは間違いないでしょうし、また社会の根底が崩れていくという意味では軍事と同等の意味合いが存在するでしょう。
軍事における国家総力戦は可能か?
国家総力戦とはまさに戦線を維持し、勝利するために国家のあらゆるものが動員されるという話ですが、これが第一次、第二次世界大戦における近代の戦争であったのです。よく日本人はイメージで「日本は国家総動員したけど、アメリカは自由だった」的な誤解をしていますが、第二次世界大戦のときのアメリカというのもまさに国家総力戦の姿そのものでした。
ちなみに豆知識ですが、国家総力戦になりますととにかく人手が足りない。戦争という消費行為は旺盛なのに、それにたいする供給能力が不足するということで、アメリカにおいても女性が労働に駆り出されたというのが事実であり、雇用の男女平等の概念のおおもとは、じつは戦争から来ているのではないか? という解釈だって成り立ったりするかもしれません。
また中野剛志さんの「富国と強兵」によると、福利厚生、社会福祉というのも国家総力戦で疲弊した兵士たちへのインセンティブとして、そして膨れ上がった予算の近い道としてというのがおおもとであり、あまりヒューマニズム的な観点で福祉国家が形成されたとは思わないほうが良いらしい。
さて、現代における国家総力戦は可能なのか? というと、2点指摘できることがあるでしょう。
まずは戦争の形態そのものが変化してきているという点。第二次世界大戦までは国家対国家でしたが、現在の戦争は必ずしもその形態を取っておりません。いわゆる(意味的にはやや異なるのですが、一般的に)非対称戦といわれるものが主流になっております。簡潔にいうと「テロとの戦い」とかですね。
また新自由主義の蔓延、移民などの増加により社会の分断が進む中において、この非対称戦の深刻さというのはますます増してきていると思われます。
もう1点は核兵器という存在。もはや核保有国同士での戦争というのは起こらないのではないか?とすらいわれております。単純にいってしまえば、人類滅亡のトリガーを引きかねないので誰もが躊躇するというわけです。
歴史から見るグローバリズムの是正
第一次、第二次世界大戦の以前は第一次グローバリズムと経済史では呼ばれておりますが、これは端的にいえば格差拡大、金融危機の頻発と連鎖、失業率の増加、世界的不景気によって各国間に遠心力が働き、それが戦争の引き金になったというわけです。
そして悲惨な二度の大戦を経て、西側陣営はケインズ主義を、東側陣営は共産主義を選択したというわけですが、これは西側陣営では四半世紀、東側陣営でも半世紀も経たないうちに崩壊してしまい、再び世界はグローバリズムを選択してしまいました。
しかし困ったことに、第一次、第二次世界大戦ではギリギリ、人類が国家総力戦に踏み切れる時代であったといえますが、現在ではもはや無理でしょう。つまり戦争という劇薬の処方箋はもはや使用できないと思っておいたほうが無難でして、むしろ戦争が発生し、国家総力戦の形態を取るのならば最終的には核の使用にまで行き着かざるをえない可能性があります。
現在核保有国でない国家も、国家総力戦になるのならばあらゆる手段で核保有を模索するでしょうし。
こうなると表現が妙ですが、グローバリズムという怪物との戦争は延々と人的資源を損ねながら負け戦の様相を呈している、という解釈だって成り立ちます。
まとめきれない感がすごいですが、なんというか幼女戦記を読んでいて「戦争の末期状態と、グローバリズムの末期状態というのは、非常に似ているのではないか?」という感想を抱いたというお話でしたとさ。
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