天皇の料理番という傑作ドラマとあらすじ
2015年に放映されました「天皇の料理番」というドラマがあるのはご存知でしょうか?TBSから放送されておりまして、非常にその時代の背景や風景を映し出しているのであろうドラマであり、私自身は傑作ドラマの1つとして数えております。主人公は秋山徳蔵という福井県の料理屋の生まれ。ここはドラマで一切触れられておりませんけれども、じつは秋山家は料理屋だったんですね。以下は「ドラマの物語のあらすじ」のご紹介。ちょっと史実と異なるところもあるようです。
この秋山徳蔵は若い頃から何をしても長続きしない。寺に入ったら長続きせずに破門にされるし、ということで家族も秋山徳蔵の将来を大いに心配しておりました。そんな折に秋山徳蔵に婿養子に入る話が持ち上がります。ここで乾物屋に婿養子として入るのですが、鯖江の陸軍連隊の駐屯地で西洋料理とはじめて出会います。そこから上京して華族会館で修行を収め、フランスに渡仏し、最後には天皇の料理番として大いに腕を振るうというドラマなのですが・・・。ちなみにドラマはフィクションとして「秋山徳蔵」ではなく「秋山篤蔵」という主人公になっております。
実際には徳蔵の家は高森家であり料理屋、もともとは庄屋の分家なのだそうです。婚姻は渡仏から帰ってきてからだそうです。婿養子に入ったのは本当なんだそうですが・・・・。まあドラマなので盛り上げるためにいろいろ設定を入れたのでしょう。ちなみに私、秋山徳蔵さんの著作を一冊読了しております。1984年に書かれた「料理のコツ (中公文庫)」という著作でして、その内容の殆どは「素材の見極め方」が記されております。もはやこれは「素材の目利きのコツ」とでも題したほうがよろしかったのでは?と思ってしまいます。
時代の風景
歴史ドラマではないので緻密に歴史が描かれることはないのですが、それでも印象的な場面がいくらかあります。渡仏した後に世話を見ていた同居人の佐吉(だったか?見直したら慎太郎でした(汗))に天皇の料理番になるために日本に変えると伝えた際や、結核の兄にそのことを伝えた際の場面は、いずれも「日本においての全てに優先されるものは天皇陛下だ」という背景を伝えるようです。
ちなみに結核の兄に伝えた場面では、私はボロ泣きを毎回します。
しかし一応当ブログは政経ブログ。ドラマばかりではなく、実際の時代風景について語らねばなりません。1904年といえば秋山篤蔵が料理修行を華族会館で始めた頃と言われておりますが、日露戦争の年でもあります。日露戦争がどのような戦争であったのか?日本の勝利を予想する国は当時の世界には存在しませんでした。
それもそのはず。日本とロシアの国力差は10倍と言われており、実際の陸軍の戦力差もまた10倍程度であったと言われております。私は日露戦争を「かろうじての引き分けに近い勝利」と分析しますが、それですら奇跡のようなものであったのです。そして日露戦争の勝利とは、日本が台頭するきっかけの1つでもありました。秋山篤蔵はそんな時代に、天皇の料理番として外交の料理をも取り仕切り、台頭する日本に恥ずかしくない料理を出す、という大役を任されることになるわけです。
このドラマ、そして秋山篤蔵の生涯が描いているものとは、まさに和魂洋才というテーマなのではないか?と思えます。現在の日本人は無魂洋才と表現できるかもしれません。だからこそ、なくした魂を求めてこのドラマで感動するのではないか?と私は率直に思います。
ちなみに秋山篤蔵はフランス近代料理の祖といわれるオーギュスト・エスコフィエに師事しております。エスコフィエの料理集は現在でも「数万円(!!)」という大著であり、いかにエスコフィエが偉大で、それに師事した秋山篤蔵がすごかったのか?を伺わせることでしょう。
世界に認めさせるため、が世界に認められるため、になった現代
ちなみに秋山篤蔵が仕えたのは大正天皇、明治天皇、昭和天皇であります。大正天皇の御大礼の際に世界に日本という国家を認めさせるために秋山篤蔵は腕をふるいます。ここらあたりはドラマにもなっているので、ぜひともご覧いただきたいところであり、秋山篤蔵が語った内容そのままになっております。
この頃の日本は「世界に日本を”認めさせる”」という気概がありました。まさに和魂洋才をもって世界と伍する、対峙するという気概を持った時代であったのです。
現在の日本はどうか?まったくもって語る気にもならないのですけれども、「認めさせる」ではなく「認めてもらう、認めていただく」に堕しているとしか言いようがありません。1990年代から吹き荒れたグローバリウズムの波に飲まれ、それまで優秀と語られた日本式経営をぽんと捨て、グローバルスタンダードなるものを採用して「認められた気でいる」のが現在の日本でありましょう。
赤い信号、みんなで渡れば怖くないとばかりに「みんなと同じ」というのに安心感を見出すのが、現代日本というわけ。わはは、これで「個性の尊重」だって。笑わせるぜ!とでも毒づきたくなるものです。
世界と対峙し、伍するものに与えられるのが尊敬や畏敬の念であるとするのならば、世界と同調し、異なることを否とする国家に与えられるものは軽蔑、侮蔑の念でありましょう。中国では近年、反日感情が抑えられ気味なのだそうですけれども、これは「日本という国家なんぞ、どうとでもなる」という侮りなのだと旧ブログでは論じました。文化を大事にしない国家とは、世界から軽蔑される国家でもあるのです。
秋山篤蔵は単身で渡仏し、世界とフランスを相手取って料理をしたというのに、現在の日本のなんと情けなく、卑屈なことか。押し寄せるグローバリズムに立ち向かうどころか、迎合し、へりくだり、TPP11や移民拡大や水道事業民営化、漁業法規制緩和、農協改革と自らの文化を自ら捨てに行っているのですから。
現在読了したのが『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた (幻冬舎新書)』ですが京大の井上章一さんのご著書です。この人は古くの大阪文化を振り返り、どんどん蒸発している文化に対して嘆きを持ってこの本を書かれたように思えます。私も読んでいて非常に悲しい気持ちになりました。
我が大阪だけでなく、日本全土がこのようなことになっているとしたら、嘆くだけではもはや済まないことは明明白白でありましょう。そしてそれは、緊縮財政全体主義、グローバリズム全体主義として現在進行系なのです。
天皇の料理番というドラマ、そして史実としての秋山徳蔵をみて感涙するとは、失われた魂を再び取り戻したいという涙なのかもしれません。