ネトウヨ的言動とはなにか?について検討する
まず私のネットでの簡単な来歴のみ書いておこうと思います。といいますのも、書いておいたほうが議論に説得力が出るだろうと愚考するからです。ネットで色々と遊び始めたのは2002年頃だったかと思いますけれども、そこから2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の東亜+にハマりいわゆるネトウヨと呼ばれる層になり、2008年辺りからネトウヨと呼ばれる層の変質に嫌気が差して経済、政治などを別口で勉強し始め、そのあたりで三橋貴明さんのブログなどとも出会いました。
2011年あたりにユーチューブで中野剛志さんの動画と出会い、その他の著作なども読んでみたりしながらブログを書き始め、2015年に進撃の庶民にお誘いいただき参加し、2016年の1月から毎日ブログを更新するという作業をしております。
その現在までの17年ほどの過程におきまして、ネトウヨというのは2000年代初頭は「間違っている歴史認識を正すための、わりと知的な活動」となっていたのですが、2008年あたりからだんだんとマイナーな存在ではなくなり、2012年辺りからは完全にメジャーな存在となりました。メジャーになるに連れて「バカが増えた」としか思えない運動と成り果てた、と私自身は判断しております。
言葉が悪いですがなぜ「バカが増えた、しかも爆発的に」と思ったのか?ネトウヨといわれている層の知識はじつはよくても2000年代中盤までの、初期の頃のネトウヨが積み上げた知識までで「止まっている」ためです。それに、初期の頃のネトウヨは「韓国の観察(笑韓な姿勢)」なんて趣旨の方も多く、ぶっちゃけて言うと愛国などを掲げている人はあまりいませんでした。
余裕のあるネット上の知的遊戯であったのですね。最初は。
ネトウヨ的言動の最たるもの
私が現在のネトウヨ層の最たる言動はなにか?と聞かれるなら「自称愛国者と称していること」と答えます。文化論の1つ、日本文化の1つも語れずに愛国者とはこれいかに?とかなり疑問です。実際に長い間ネトウヨウォッチングをしておりますけれども、ネトウヨ系ブログで日本の文化論なんぞはついぞ見たことがありません。
閑話休題。
「自称愛国者」である彼らにとっては、日本は無謬のものでなくてはなりません。日本が間違っているなど、ネトウヨにとってはありえないのです。なぜか?「自分たちが愛する日本が、そのような間違いをする存在であるはずがない」という前提条件がネトウヨの中には存在します。逆説的ですが日本が(ネトウヨの認識の中では)無謬であるからこそ、彼らは自称愛国者でいられるのです。
なぜこのようなわけのわからない話になるのか?ネトウヨの言うところの「愛国」とは、「日本が愛する価値のある国家であるはずだ」という前提条件に基づいており、決して郷土愛だとか共同体意識だとか国民意識(ナショナリズム)といった概念から日本に愛着を持っているわけではないからです。
論より証拠。ネトウヨに日本の文化論でも語らせてご覧なさい。靖国、大東亜戦争、天皇くらいしか出てこないことでしょう。まだ外国人の「富士山、天ぷら、寿司」というステレオタイプの価値観のほうがよほど日本の文化論に近いところにいます。
上述の愛国構造は認知不協和を深める
上述しました愛国構造、つまり「日本が無謬と信じるゆえに、愛国である」という構造は、日本にとって建設的な批判であっても封じうる構造であると解釈可能です。むしろ「無謬である」という認知不協和から出発しているのですから、認知不協和を深めていくばかりの構造であることは間違いありません。
これは一般的なネトウヨだけではんく、有識者や政治家などのネトウヨにも当てはまる特徴ですが、一例を2017年の米朝首脳会談と北朝鮮のミサイル乱れ打ちから引きましょう。
2017年3月だったかと思いますが、トランプと習近平が会談をしている最中に、トランプはシリアに59発のトマホークミサイルを打ち込みました。これは明確な中国、北朝鮮に対する圧力でありました。つまり北朝鮮をコントロールしなければお前たちもこうなるぞ、という脅迫です。
上記の解釈自体は間違ってはいないのですが、一方でアメリカが中国がバックに付いた北朝鮮に対して軍事制裁をできないというのも、明確な事実だったのです。実際に私は旧ブログの米国の北朝鮮への軍事侵攻はあり得るか?(2017.4.5)にて「アメリカの北朝鮮への軍事侵攻はありえない」と明言して予測しているように、これは事実でありました。
それでも当時はメディアも「斬首作戦だ」などと騒いでおりましたので百歩ほど譲りましょう。しかし青山繁晴さんなど多くのネトウヨ有識者は2015年でしたか?の南沙諸島の中国の軍事基地建設でも「アメリカは軍事制裁をする!」と言って外したにもかかわらず、今度は「アメリカ様が北朝鮮に軍事制裁をしてくださるはずだ!」ですから手におえません。
つまりネトウヨ、その手の有識者などの頭の中からは「アメリカが軍事制裁しないかもしれない、もうそのような力がアメリカにはないのかもしれない」という非常に現実的な可能性がすっぽりと抜け落ちていた(というより、考えないようにしている)のです(!!)
しばしばネトウヨは「決まった結論のために、都合の良い情報を集める」という行為をしますけれども、それは「日本が無謬であるはずだ」という前提条件を持った「愛国心」であったからというわけです。認知不協和は深まるよどこまでも、です。
これがネトウヨ的言論、と私が呼ぶものです。残念なことにネトウヨだけに限らず、多くの日本人やメディアも認知不協和に陥っている、というのが私の診断ですが、少なくともネトウヨはその度合が非常に強いと見て間違いがありません。だって在日朝鮮人を批判しながら、安倍政権の2度めの入管法規制緩和に対してはスルーなんですぜ?!
ネトウヨが愛国心を語りながら、文化論を語れないわけ
私は愛国心とはすなわちナショナリズム(共同体意識)であり国民意識であると思います。もしくはもう少しスケールを小さくして郷土愛(パトリオティズム)と表現してもよろしいでしょう。日本というローカルなものに対する愛着という表現でも良いと思います。ネトウヨの言うところの愛国心と区別するために、仮にこの稿では愛郷心と表現します。
つまり「地域(日本やおらが村)に対する愛着、郷土愛」こそが愛国心であり愛郷心であると解釈します。愛着があってもその対象は無謬ではないので、愛着があるからこそ批判をするという話もこれで成り立つことになります。愛着があるからこそ「無謬でただ付いていくだけ」ではなく、愛着を持つ当事者として真剣に将来を考えるわけです。
さて、この愛着の正体とは何でしょうか?それはその地域や日本に根ざした文化、伝統、慣習、常識などの「慣れ親しんだもの」であると解釈されるはずです。無機質かつ合理的なものではなく、有機的かつ柔軟で強靭な文化や伝統、常識に我々は親しんでいるのです。昨今はグローバリズムやら新自由主義、構造改革、規制緩和が進んでだいぶ壊されておりますけれども。
ではネトウヨのよく口にする伝統とはなにか?輪切りにしてみますとその時代時代の文化の中で、特に慣れ親しまれたもの、必要とされたものが自生的に選択されてきた結果と言えます。最もこれは循環論的な話ですので、伝統(土台)→文化(派生と定着)→伝統(土台)と循環していくわけですが。
ならばネトウヨの言うところの伝統とは、文化論を語ることなくして語れるものではありません。しかしネトウヨには文化論はほとんど語れない。和食、日本料理、日本の庶民が何を食べてきたかという衣食住の食という欠くべからざるものについてすら、語っているところをあまり知りません。
我が大阪は50年、60年前の冷凍技術の発達前は京都の料理人すら「あの人は大阪で修行してきた人やから」と言うほどに、和食の進んだ地域でありました。水運、地政学的にも新鮮な魚介も取れ、そして交通の要所でもありましたから食が発達したのは必然でありましょう。そして戦前は大企業本社が東京都1:1ほどでありましたから、ブルジョワのいる街でもあったのです。
余談ですが、食い倒れとは(昔は)「うまいものを食べすぎて破産する」という意味合いでした。食通の食道楽の街が我が大阪であったのです。なぜ過去形なのか?非常に残念ですが、南の街を見れば今や安価な粉もんが多数を占めて、食都大阪はもはや後景に成り果てたのです。嘆かわしい・・・・。残念でなりません。この事実を認めるのに、憤死しそうな勢いで否定感がうずまきます。あ~・・・腹立つわ。
閑話休題。
正直に申し上げますと、私にとって食の話とは皇室の話よりある意味で重たいものだと解釈しております。皇室、天皇も日本の伝統の最後の砦とは認識しておりますけれども、文化の中でも食というのはとりわけ重いものであり、食が花開くところに栄華と文化と伝統が生まれるのです。
非常にぶっちゃけた話ですが、二者択一で「皇室がなくなるか、日本の食文化がなくなるか」を選べといわれたら、非常に悩みながらも私は後者を選択しそうな気がします。いや、味噌汁がなくなるのは流石に嫌ですし。皇室があっても、明日からハンバーガーやらラーメン、中華料理、タイ料理、洋食(日本で改良されたものはない)で耐えられます?絶対無理です。米と味噌汁、納豆や漬物がないともはや動けません。刺し身が一生食べられへんとか、どんな嫌がらせよ。うどんも蕎麦も醤油もない世界で、私は生きていけるとは思えません。
ああ、いかん。また話がそれました。これだから文化関係の話は広がりすぎて駄目なんです(笑)
さて、ネトウヨがなぜ文化論を語れないか?ですが、逆説的に彼らには「語る必要がない」のかもしれません。なぜならばネトウヨにとって日本とは無謬であるから、そもそもどんな文化であろうが「間違っていない」のであり、つまり愛着を持つ必要がないものなのでしょう。見もせずに否定をせずに、肯定のみし続けるとは、つなわち無関心と大差がないのであります。
愛の反対語はなんであったのか?聡明な読者でしたら「無関心」と即座に思い出されるでしょう。
しかしネトウヨは愛郷心を支える愛着の源、文化に興味がない。ただ無関心に肯定するのみだとすると・・・これは「日本に対する無関心」と最終的にはなります。あら不思議、ネトウヨが安倍政権の移民政策にすら「無関心」であった理由がここにはっきり致しました。
ネトウヨの主張は自己肥大化のたまもの
最後に端的に論じておきます。ネトウヨの愛国心とは「無関心の賜であった」と結論付けられました。本当は彼らは、日本に対して関心なんてないし、愛着なんてないのですよ。文化論の1つも語らないのがその証拠であります。
ではネトウヨが愛国心なるものを振りかざして、していることはなにか?単に自己肥大化した精神を「日本は無謬」という建前で吐き出しているだけ、と解釈可能です。ネトウヨは日本にすら「無関心」なのですから、いざ非常時が起こったらほとんどのネトウヨは散り散りに真っ先に逃げることでしょう、と予測と解釈が可能です。自分に都合の良い解釈と情報をした上で。
P.S
あまり移転したので「あの争いがこーで!」とは言わないでおこうと思ったのですが、弁明の意味も込めて表明しておこうと思います。再掲【読者様参加型】進撃会議室〜進撃のこれからにて取り上げられている holyfireworkさんという方の弁は、典型的な「都合の良い方向にしか解釈しないネトウヨ的言動」と解釈可能です。自己肥大化のたまもの、というわけです。こういう人、嫌いです(断言)
多くは申しませんけれども、私は進撃の庶民の更新を担当する管理人も務めさせていただいております。創業者(と表現するのでしょうか?)は影法師さんなのですが、私は影法師さんを全面的に信頼しており、ついでに言えば普段の仕事が自営業ですので、ネットまでトップに立つのは「いや」なのです。いやほんま、イヤですよ。だから影法師さんの存在は非常にありがたいと思っております。
ネトウヨ的言動をする人というのは、どうにも迷惑なやっちゃしかおらんのですわ~・・・と愚痴りつつ、本日は議論を終了させていただきます。
ネット右翼には何かしら思い当たる節がある。
戦前の日本では高等教育を受けるということは本人にとっても家族にとっても大きな努力が必要だった。
戦後の日本では誰もが大学までいけるようになった。
昨今の日本人の中身は皆大学にまでいったというところだろう。
どこまでいってもこれの繰り返しのよう見えるがそれではあまりに悲しい。
何かが必要なのはわかる、それが日本と日本人とは滅茶苦茶だ。
どこに行っても日本と日本人は見つからない。
そこでネット右翼だ、しかしいずれどこかで止まる。
日本を主張すれば日本が出てきて日本人というのは本末転倒だが
回りを見ると同じ事を言う連中が次から次に出てくる。
それでは声が一段と大きくなるのもやむを得ない。
お隣の国も同様だからこれから先はけばけばしい時代になるだろう。
>どこに行っても日本と日本人は見つからない。
非常に深い表現です。「どこの行っても日本と日本人は見つからない」
恐らくその通りでしょう。記号上の日本人は見つかるが、しかし本当の日本人はもはや見つからない。
>非常にぶっちゃけた話ですが、二者択一で「皇室がなくなるか、日本の食文化がなくなるか」を選べといわれたら、非常に悩みながらも私は後者を選択しそうな気がします。
上記は2つの意味で・・、書くべきではなかった部分かと、思います・・・・。
まず、意識高い系ネット右翼が、「皇室がいらないとはけしからん!」「皇室さえ存続できれば日本は永劫続くんだあ!」・・・、みたいな意味のわからん突撃を招きかねないという・・、そういう点が一点。
つまりは、買いたくもない喧嘩を売りかけてくるような人が、場合によってはでる、可能性が、何もない時よりは上昇する・・。そういう点において、上記のような比較はすべきではなかったのではないかと、個人的には思います・・。
もう一点は、上記の2択は、究極の選択に近いからです。
おそらく、ヤンさんは自分はほんとに何をさしおいても絶対に日本食が一番なんだという、ただたんにそれだけの表明・・、そんなつもりだったのかもしれませんが・・・、
結果的にですが、上記の和食or皇室の2択は、究極の2択となりかねません。
なぜなら、どっちがなくなれば良いという話しではないからです。
右腕と左腕、どちらか切り落とさなければならないのなら、どちらを選ぶ・・?
という選択を、仮に、変なデスゲーム(?)みたいなもので、仮に、せまられてしまったとして・・、その時にですね・・・、
「俺は右利きだから、じゃあ左腕を切り落としてくれ」・・というのと、同じぐらいの、合理性を、いくぶん、感じます。
この2択の答えは、20年くらい前の漫画を参考にすれば・・、『沈黙!!それが正しい答えなんだ』です。
右腕(和食)も左腕(皇室)も、どっちかを切り落とせばいいという話しではないからです。
上記の20年くらい前の漫画の、失敗回答者みたいに・・、「そりゃあ~母親は、この世にたった1人だぜ。恋人はまた見つけりゃいい(本当は恋人に決まってるが、この方がババア好みの答えだろう)」・・・という、合理的(?)な回答をすれば良いと言う問題ではないからです。
和食も皇室もどっちも大事です。
この和食・皇室の2択は、上記の『ドキドキ2択クイ~~~~~ズ!!』に近しいものがあります。
どちらか一方を選ぶなんてことは、できないのです。
自分自身の右腕か左腕、どちらか切り落として良い方を選べ、と言われるのと同義のようなものなのですから・・。
どちらかを選んだ瞬間に、それは必然、合理的なものになってしまうのです・・・・。
なぜなら、本質的には、選びようのない、2択なのですから・・・。
・・・・ただあぁし、皇室がなくても、ナショナリズムをある一定維持することは・・、これはまあ、たぶん、可能でしょう・・・・。
まあ、これを書いちゃいますと元も子もないのですが・・、結局、皇室・・、というより天皇は・・、国家国民の統合を円滑に進めるためのツールの1つなのです。
ですので・・、こんなことを書くのははばかられるのですが・・、なくても国家の維持はまあ、たぶん可能です。
なぜなら、王室がなくなった、ドイツもイタリアも、フランスも、今現在もそこそこ一定のナショナリズムを維持しているからです。(ヤンさんが言われるように、各国の郷土料理・・、もしくは伝統衣装、伝統建築、各国それぞれの国民文学・・それらがあれば、各国それぞれに、王室がなくても、一定のナショナリズムの維持は可能だからです)(ただまあ、それでも、左記にあげた国々、現状では、それぞれナショナリズムが結構、風前の灯ですが・・・)
ヤンさんが、言うように、和食、もしくは和服でも、日本建築でも日本文学でも、日本のナショナリズム維持は、これは可能です。
また、天皇が存在している2019年の現在においても・・、国民はどんどんバラバラになっているじゃないかと、天皇の存在価値なんてなんかあるのかよ・・?・・・という反論をされるかたも、もしかしましたら中にはいるかも、しれません。
しかし・・、1つ言えるのは・・、1947年の時点で、日本国から天皇並びに皇室が消え去り、『日本共和国』になっていたら・・、そのif時空の日本国の2019年は、おそらく今のこの状態の日本国よりもはるかに・・、国民のばらばら具合が進行した日本国になっていたのではないかと、思います。(たぶん)
ですので、天皇並びに皇室の価値も、現状においては十二分にあるのではないかと、まあ、考えます。
また現在、現天皇は、左翼からも右翼からも、一定以上の支持を得ています。(反対しているのは一部の極右か極左くらいです)
つまりは、国民のほぼ大多数から支持を得ているのです。
これは、国民統合のためのシンボルとしての天皇が、一定程度きちんと機能しているあかしともいえるのではないと思います。
そして現天皇も、国家国民のために、『忠義』を尽くしているように・・、少なくとも私には、見受けられます。
まあだからこそ、私は現天皇に対して、畏敬の念を抱くのです・・。
あのかたは、国家国民の、現人神であり、人身御供でもあるのですから・・。
(まあだからこそ、人権侵害という方向で、左翼から天皇制を批判されれば、我々は口を噤まざるをえないのですが・・)
まあ、最後の方は話しがどんどんそれて行きましたが・・・、まあ、しかし、上記で取り上げた点ですが・・、ヤンさんはそこまで大仰に考えられているわけではない可能性が十二分にあります・・。ただたんに、和食が宇宙1大好きという、ただたんにその表明がしたかっただけだと、言えるかもしれません・・。その場合は・・、すみません・・(^^;)
いやいや、まったくもって究極の2択で、正解は「沈黙」なのかもしれません。
まあしかしそれはそれ、「非常に悩みながらも私は後者を選択しそうな気がします。」と気がするだけなので、寛容にご容赦いただきたいところです(笑)
>単に自己肥大化した精神を「日本は無謬」という建前で吐き出しているだけ、と解釈可能です。
ああ、申し訳ないですが・・、ネット右翼諸氏は、まあ、だいたいこんなかんじ(↑)かと思います・・・。
>ネトウヨ的言動をする人というのは、どうにも迷惑なやっちゃしかおらんのですわ~・・・と愚痴りつつ、本日は議論を終了させていただきます。
結局、反安倍だろうがなんだろうが・・、認知的不協和にいたるものは、いたる、という十二分すぎる証左ですね・・・。
その人がどういう人かどうかを、きちんと見極めるのは、大事だと思います。
・・私としては、嘘つきは、基本的には端から信用できないものだと思っています。
(私は反対意見だろうと意見は意見として認め、尊重すべきと・・、基本的には考えますが・・、嘘つきとは、まず前提として、議論そのものがなりたたないという理由もありますが・・、話しにならないと考えています)
(つい最近も、三橋ブログでそういう人がいて、愕然としました・・)
おっしゃる通りで、イデオロギーや主義主張に関係なく「認知不協和」の方はいらっしゃいます。ネトウヨは総じてその度合が強いと言うだけですね。
嘘つきはいけません。議論が成り立たなくなるどころか、周りが振り回されることがおおよそですから。できる限り誠実、真剣、真面目ありたいし、あってほしいとみんな思いますよね。
かつてのお遊びがいつしか心に余裕のない偏狭な人たちに席巻され、特定の勢力に反発することが主目的になっていったのだとすると、そもそも日本人や日本文化に根本から関心がないことはとても頷けます。愛国を唱える人たちが自国に無関心というのに一瞬驚きましたが、そりゃ日本人に対しても競争を煽っては自己責任論で潰していくことに抵抗がないわけですね。
同じく皇室と日本の食文化の存続のどちらを選択するかというお話も一瞬驚きましたが、皇室だけあればあとは移民ばかりで良いのかという話と同じように思いました。日本の食文化がなく皇室だけ象徴として存在していても、国民の生活に対して皇室が文化的に離れすぎていてまるで他国の王室を見るように大事なご存在ではなくなっていくのだろうと思います。
そう考えると、すでにして日本は他国からみた日本の文化観/歴史観に囚われた結果、日本に無関心な日本人が日本を破壊していったわけだよなぁと思わされます。
自分でもなかなかショッキングな論理建てかと思いますが、説得力はある程度あるような?です(汗)