先日、物江潤の著作「ネトウヨとパヨク」を再読了しました。じつは以前、図書館で読了済みです。今回はKindleで読了したので、ネトウヨとパヨクの感想やレビューをお伝えします。
かなり考えさせられる部分が多い著作でした。私もあなたも、気がついたらネトウヨやパヨクに陥っているかもしれません。自戒の意味も込めての感想・レビューです。
基礎情報
ネトウヨとパヨクの著者は物江潤です。年齢はまだ若く1985年生まれだそう。東北電力に入社後、退社して松下政経塾に入塾し、現在では私塾を経営しつつ執筆活動をしておられます。
ネトウヨとパヨクが出版されたのは2019年5月で、まだわりと新しい書籍です。以下はアマゾンから引用した「ネトウヨとパヨク」の解説文です。
「すべて中韓の陰謀だ」「いや諸悪の根源は現政権だ」――無知に気付かず、自らの正義を疑わず、対話を拒否し、ひたすら他者を攻撃する。ネット上で日常的な光景となった罵り合いの主役が、ネトウヨとパヨクだ。時に世論をも動かす彼らの影響は、今や中高生にまで及びつつある。眩暈(めまい)のするようなおかしな論理や、無尽蔵のエネルギーはどこから生まれるのか。行動原理や心理を読み解き、建設的な議論への道を探る。
目次
以下はネトウヨとパヨクの目次です。
- はじめに
- 第1章 ステレオタイプなネトウヨ・パヨク論を振り返ろう
- 第2章 眩暈がするような主張を繰り返すネット上の人々
- 第3章 結論しかない主張は最強である
- 第4章 無尽蔵のエネルギーが対話相手を疲弊させる
- 第5章 「真っ白な中高生」に迫るネットの主張
- 第6章 ネトウヨやパヨクの終着点
- 終章 それでも、対話をする心構えを持たなくてはならない
- おわりに
概観
ネトウヨとパヨクの重要なポイントを抜き出して概観しましょう。
ネトウヨとパヨクの定義とは
物江潤が定義するネトウヨとパヨクとは「対話不能な人々」です。
ネトウヨはメディアで「社会的弱者」「引きこもりのオタク」「ニート」などのイメージで語られてきました。物江潤はさまざまな実証研究を引き合いに出し、これらのネトウヨやパヨクへのイメージは間違っているとします。
実証研究によるとネトウヨやパヨクに際立った特徴はありません。隣人がネトウヨやパヨクかもしれないと物江潤は言います。
物江潤は実際にネトウヨやパヨクと呼ばれる人たちと、ネット上で対話することを試みました。その成果はまさかのゼロ。全く対話にならなかったと言います。
このことからネトウヨやパヨクの定義を「対話不能な人々」とします。
議論のルール
ドイツの哲学者ハーバーマスの主張によれば、議論には3つのルールがあります。
- 自らの主張は仮説に過ぎないと確信すること
- 人の発言権を奪わないこと
- どれほど奇妙奇天烈に思える主張でも、理由付け(論拠)や事実で、その良し悪しを判定すること
ルール①はそのままの意味です。世の中のありとあらゆる主張は仮説に過ぎません。そのことをしっかりと認識する必要があります。
ルール②はレッテル貼りや差別をしないことです。「○○のくせに生意気だ」「○○なんて信用できない」などの発言は相手の発言権を奪いますから、してはいけません。
ルール③は主張のイメージだけで判断をしてはならないということ。
この3つのルールが守れない人を対話不能として、ネトウヨとパヨクと本書では定義しています。
島宇宙とSNS
政治言論は基本的に孤独です。特にリアルでの政治活動は演説を行っても、真摯に候補者に自分の意見を届けても反応は乏しいです。
現実で対話不能な人々はさらに孤独です。対話不能でつまはじきにされるからです。
しかし、SNSでは同じような政治主張の人々がつながれます。すなわち、島宇宙の形成です。現実では対話不能の人々もTwitterのような140文字という制限の中では、結論と断言を繰り返すだけで島宇宙の一員になれます。
社会心理学者のギュスターヴ・ル・ボンは「断言、反復、感染」が大衆の心をつかむと言います。現実では対話不能だった人々がTwitterでは島宇宙を形成し、断言、反復、感染によって主張を拡大していきます。
こうして対話不能な人々が作る島宇宙は、現実に大きな影響を及ぼし始めると物江潤は危惧します。
結論だけを繰り返し述べるとは、論拠が確定していない状態です。どのような情報に対しても結論だけが固定されいるのです。
例えば「トランプは選挙で勝利するはずだ」という結論を変えず、トランプが選挙で敗北した情報を知った場合は「不正選挙が行われたからトランプが敗北した。不正さえ行われていなかったら勝利したはずだ」と結論が固定され、論拠のみをこねくり回します。
これではどのような情報も、決定された結論につながります。結論は決して変わりません。
したがって、論拠を検討する意味がなく議論になりません。
こうした人々が現実に影響を与え始める危惧は深刻です。
妄信した正義
結論が変わらず対話不能になる人々は、正義(=結論)を妄信します。物江潤はある原発反対の活動家や、福島に支援に来た大物歌手とのやりとりを例に挙げ説明します。
私も卑近な例を挙げて正義の妄信を説明します。
安倍信者は安倍総理がTPPをしても、移民拡大をしても支持し続けました。TPPや移民拡大が国益に反するにもかかわらず! 彼らにとって安倍総理=正義であり、何があっても支持し続ける対象でした。
TPPや移民拡大も「安倍総理に何か考えがあるはずだ」と、かたくなに安倍内閣支持を変えません。
これが妄信した正義です。
このようにして人は対話不可能に陥っていきます。
正義を妄信した瞬間に人は対話不能になるのです。
ネトウヨとパヨクへの感想・レビュー
ネトウヨとパヨクについて私なりの感想やレビューを述べます。政治経済論を記事にする1人として自戒の意味も込めています。
「すべては仮説」という謙虚さが大事
絶対的な正義を確信・妄信したとき、人は対話不能になります。だからこそ、すべては仮説という謙虚さが大事です。
絶対的な正義とは何でしょうか? 私なりに解釈すると理性の妄信、理性の暴走です。自身の理性への過剰な信頼こそ、対話不能の入り口です。
こうしてみると保守という姿勢の大切さがわかります。保守とは理性は万能ではないとし、警戒する姿勢だからです。
物江潤の言う「すべての主張は仮説」という態度は、保守的な姿勢と言えます。
ネトウヨやパヨクのような対話不能な人々が理性を妄信しているとすれば、ネトウヨは決して保守ではありません。
対話不能に陥らないため、理性への警戒が重要です。
ネット上の議論の99%は無駄
物江潤は対話不能な人々を一部とし、その人たちをネトウヨやパヨクと定義しました。他方、対話可能であることと、有益な議論が可能かどうかはまた別です。
ネットで絡まれる場合、Aという私の意見を否定したいがために相手は絡んできます。
その批判や否定も上から目線の場合が多い。
相手からすれば「間違っている私を小馬鹿にしつつ教えてあげる」という態度です。
この時点で有益な議論は不可能です。ネット上ではこのような事例にあふれています。
私は「ネット上の議論は99%無駄」と考えています。絡まれて議論に付き合って、有益だったことはほとんどありません。
物江潤も「対話ができる=有益な議論になる」とは考えていないでしょう。しかし議論に対してポジティブな姿勢が物江潤には見られます。
一方、私はネガティブです。
この点が物江潤と私の相違だと感じました。
対話不能な人々との対話より有益なこと
物江潤が言うように、対話不能な人々との対話ほど不毛なことはありません。また、私はネット上の議論の99%が無駄と思っています。
こんなことを言うと「民主主義に議論は不可欠! 議論しなさい!」的な主張をいただきます。しかし、議論とは何も論を戦わせるだけではありません。
例えば読書は著者との対話であり議論です。ネトウヨとパヨクの読書中、物江潤と私はずっと議論していました。
例えば記事にするためアウトプットしたり整理したりする行為は、自分自身との対話であり議論です。自問自答しつつアウトプットする作業は議論そのものです。
このように、議論とは決して論を戦わせるだけではありません。もっと有益で素晴らしい議論はいくらでも世の中に存在します。
私の経験上、ネットで1万回議論するより良質な書籍の1冊が勝ります。
そして、ネットで議論ごっこをしている人たちではなく、議論しない普通の人々に向けてアウトプットすることそこ逆説的に「有益な議論」と呼べるのではないでしょうか。
まとめ
最近、記事で敬称は略しています。どうかご容赦を。
ネトウヨとパヨクはとても興味深く、そして物江潤の情熱があふれる著作です。男気があるというか怖いもの知らずというか――物江潤は実際にネトウヨやパヨクと対話を試みました。
当然ながら対話が成立せず、ものすごいストレスを受けたそうです。そのストレスたるや体に発疹が出るほどでした。
そういったエピソードを知りつつネトウヨとパヨクを読むと、物江潤の温厚な人柄が伝わってくるようです。
ネトウヨやパヨクのことを知りたいなら、「ネトウヨとパヨク」は必読の書です。
>絶対的な正義とは何でしょうか? 私なりに解釈すると理性の妄信、理性の暴走です。自身の理性への過剰な信頼こそ、対話不能の入り口です。 こうしてみると保守という姿勢の大切さがわかります。保守とは理性は万能ではないとし、警戒する姿勢だからです。
確かに人間理性を万能視する思想、つまり啓蒙思想やそこから派生した民主主義、共産主義、全体主義は絶対的な正義を掲げています。日本で言えば、移ろい行く国民世論を絶対視する戦後民主主義、急進的な国家改造と対外膨張を唱えた戦前昭和の軍国主義もまた然り。
ただ、絶対的な正義を掲げる「理性万能主義=西欧近代のイデオロギー」を生み出した源流は、唯一絶対神を信仰対象とするキリスト教にあります。西部邁さんや適菜収さんが、キリスト教道徳や近代大衆社会を徹底批判したニーチェの思想を保守思想とみなすのも分かる気がします。
>唯一絶対神を信仰対象とするキリスト教
最近ようやく適菜収さんの「安倍でもわかる保守思想入門」を読了しました。適菜収さんの著書は初めて読みました。
そこでも「ニーチェは保守」との主張が。
読んでみて「ああ、なるほど」と腑に落ちました。
ちょうど昨日、適菜さんの著書「日本人は豚になる: 三島由紀夫の予言」を読み終わったところです。内容としては、三島由紀夫の残した膨大な評論やエッセイからの引用と、それに対する著者のコメントや四方山話などを差し挟んだいつものスタイルです。
三島由紀夫と言えば、50年前に自衛隊市谷駐屯地に籠城してクーデター未遂&自決した狂信的極右主義者(理想主義者)というイメージがありますが、同時に日本古来の歴史・伝統・文化を生命視する筋金入りの保守主義者(反理想主義者)でもあります。特に三島の晩年はこの2つの矛盾する要素が同居していたようです。
それから、戦後民主主義や対米従属体制(日米安保体制)の欺瞞はもちろんのこと、全体主義を生み出した大衆社会と近代合理主義、さらにその源流としてのキリスト教的価値観を痛烈に批判しています。
三島の文章は小林秀雄と同様、多少難解ですが、機会があれば読んでみてください。
適菜収さんの著書を読むと三島由紀夫にも俄然、興味が湧いてきます。機会があれば読んでみます。
他にも福田恆存とかも読んでみたいんですよね。
ネット右翼やネット左翼というのは、個人的な見解ですと、その正義の活動は気晴らしなんじゃないかと思います。私生活や社会生活の・・・・。
自分のネット右翼体験や、リアルにネット右翼的発言をしている人と遭遇した時の感想ですと、そうなります。
家庭環境がどことなく拗れていたり、もしくは仕事等に不安や不満や苦労があったりと・・・。
個人的には、自分が直接会った何人かのネット右翼を思い出すに、そんな人が多いんじゃないかと思います。
で、そんなネット右翼の正義の発言が、一種の気晴らしだとしたら・・・、
彼等にはなかなか正論なんてものは通じないと思います。
安倍・菅政権の間違いとか、移民拡大とか、増税とか、究極的に言えば、韓国の反日問題でさえ、彼らは本当はどうでも良いのです。
このどうでも良いというのは、その各種問題の解決です。
彼らはその各種問題の解決を、実の所は重視していないのです。
なぜなら、彼らの活動は、自分の心の気晴らし以上のなにものでもないから・・・・。
ですので、PB黒字化目標の破棄だとか、過度なグローバル化や新自由主義の制限だとか、財政出動だとか、そんなのは彼らは聞いていないのです。
究極的には、悪役を作って叩いて自分の心が満たされればそれで良いのです。
彼等にとっては問題を解決させることが第一ではなく、自分のストレスを発散させることが第一なので、解決策には関心が薄いのです。
これはネット右翼、ネット左翼ともに、そうなのではないかと思います。
ですので、彼等との対話にはほぼほぼ意味がないっちゃあ、これはないのです。
唯一解決策があるとすれば・・・、それは、経世済民を実現させ、ネット右翼やネット左翼に堕ち込むような人間を、ゼロにはできずとも、少しずつ少なくすることです。
そうすれば、おのずと、ネット右翼もネット左翼も減っていくかと思います。
不幸な人間が減れば、ネット右翼・ネット左翼もおのずと減少していくかと、思うのです。
(完全に消し去ることはできないかと思います。それこそ、人の不幸や不安や不満は、それこそ人の数だけ存在するそれこそ複雑なものだからです)
難しいところですよね。
というのも、ネトウヨ独自の価値観による「解決策」はあるのかもしれません。
我々にはそれが解決策には到底見えないだけで(汗)
下手したら「叩く」という行為が解決策なのかもしれない。
との感想を抱きましたよっと。