愛国心と聞くと警戒心を持つ人、興味を示す人、さまざまな反応があるでしょう。日本人にとって愛国心とは身近ではなく、どこか遠い国のことのように聞こえる言葉です。
愛国心を持つか持たないか以前に、愛国心と何かについて知っておきましょう。どんなものかわかってから、持つか持たないか決めても遅くありません。
今回の記事では愛国心を近代の歴史や民主主義から解き明かし、わかりやすく解説します。
愛国心の歴史
まずは愛国心の歴史について紹介しましょう。古代から存在したように思える愛国心ですが、その登場は近代になります。
人類最古の愛国心「エスノセントリズム」
国民が国家に愛着を持ち、国家と自分の運命を同一視し、国家に身を捧げる感情を愛国心は含みます。この感情を19世紀のアメリカの社会学者ウィリアム・グラハム・サムナーはエスノセントリズムと名付けました。
エスノセントリズムは人間が集団で生活していると発生しやすく、未開社会においても存在したと言われています。
エスノセントリズムは愛”国”心とは言えませんが、愛国心と同様の感情を含むものです。
封建社会に愛国心はなかった
中世の封建社会において愛国心は存在しませんでした。封建社会で兵士の自己犠牲は君主に捧げられるものでした。すなわち忠誠の対象は国王であり、国家ではありません。
身分は厳格に分かれており、社会全体を1つの共同体と見なす意識も存在しません。したがって国家そのものを愛するという考え方は存在し得なかったのです。
国民の忠誠心はもっぱら君主に向けられていました。
わかりづらければ日本の戦国時代や、江戸時代をイメージするといいでしょう。日本国を愛するという考え方が存在しないことに気がつきます。
近代国家と民主主義と愛国心
現在、議論されている愛国心の登場は近代です。近代国家の成立ともに愛国心は生まれました。
近代になって成立した民主制国家は国民皆兵が基本でした。国民一人ひとりが国家の主権者、すなわち国家の主であり国家を防衛する義務を負います。
兵士は国家への忠誠を誓わなければなりません。国民皆兵ですから、国民は国家への忠誠を求められました。
これが愛国心の始まりです。
国家への忠誠とは民主制国家において、主権者たる自身も含めた共同体全体への忠誠です。このようにして国家は国民に愛国心を求め、愛国心が誕生しました。
連綿と続く郷土愛的な愛郷心
愛国心とは別に、愛郷心は連綿と人類が発生してから存在しました。愛郷心とは「おらが村」意識です。この愛郷心と愛国心の違いも、後述する議論で明確になるでしょう。
愛国心とは
愛国心の定義は幅が広く、論じる人によってさまざまです。しかしナショナリズムとパトリオティズムが中核にあることは確かです。
愛国心を英語で言うと?
愛国心は英語でPatriotism(パトリオティズム)と書きます。昔はNationalism(ナショナリズム)も使われていましたが、現在ではパトリオティズムが主流です。
英語で愛国心について話す機会があるなら、パトリオティズムを使用する方が無難です。
ナショナリズムとは
ナショナリズムは近代国家や民主主義とともに生まれました。じつは古代ローマで民主制のポリスにもナショナリズムに近い概念がありました。
ナショナリズムとは突き詰めると主権者たる国民が、上位概念たる国家に忠誠を誓う意識です。忠誠とは「真心」と言えます。
忠義や誠意と換言してもいいでしょう。
ナショナリズムは家族の構成員が「家族全体」ないし「家」と接するようなもの。国民と国家とは、家族の構成員と家の関係です。
その間柄で抱く忠誠がナショナリズムです。
自分たちの属する共同体への誠意や真心と換言できるでしょう。
パトリオティズムとは
パトリオティズムとは郷土愛です。「おらが村」の意識であり、自分の生まれ育った地域や共同体への愛着です。
現在、愛国心は愛郷心の拡大と解釈する人も多いです。
愛国心とナショナリズム・パトリオティズム
愛国心は主にナショナリズムとパトリオティズムの2種類があります。この2種類を明確に分けずに議論するので混乱します。
ナショナリズムは民主主義と同じく教育が必要です。なぜならナショナリズムは共同体意識という側面の他に、国防の義務を伴うものだからです。
あたかも家族内のルールを子供にしつけるようなものです。
パトリオティズムは自生的です。人間が誰しも抱く慣れ親しんだものへの愛着だからです。
日本語で愛国心と言った場合、ナショナリズムとパトリオティズムの2つの意味があります。それぞれを意識して議論するようにしましょう。
愛国心と日本
日本の愛国心について要点だけ伝えようと思います。日本において愛国心は、危険だと警戒されることもままあります。
日本の愛国心が「なぜそうなったのか」「今はどのような状態なのか」を議論します。
戦前の日本は民主制国家として過渡期でした。立憲君主制を採用していたものの、明治維新からの急激な変化に手探りの状態です。ナショナリズムも初期には形成されていませんでした。
上述した通り近代国家にはナショナリズムが不可欠です。戦前の日本はナショナリズムの源泉を天皇に求め、忠君愛国を奨励しました。
ナショナリズムとは家のルールに子供をしつけることと似ています。そして近代化に必要でしたから、日本のたどった道は非難されるものではありませんでした。
過程が間違っていなくても、結果が伴わないことなど世の中にはたくさんあります。日本もその例に漏れなかっただけです。
敗戦後、日本はGHQの占領下に置かれます。
現在の日本に愛国心が薄いのは、GHQのウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム(WGIP)が原因だとの議論があります。
WGIPとはGHQが日本に罪の意識を背負わせ、二度と軍国化しないようにするプログラムです。
ただしWGIPは数年間しか行われていません。数年間で愛国心が喪失したという議論はいささか無理があります。
現在の日本人に愛国心が薄いのは、単に、自国を自分たちで守らなくてよかったからです。
日本は敗戦後、アメリカの庇護を受けて属国となりました。経済的には富国の道を歩みますが国防は弱兵でした。弱兵でもよかったのは、アメリカが日本の防衛を担っていたからです。
民主制国家では国民が国防の義務を負います。だからこそ国家への忠誠心を求められます。では日本はどうだったか?
国民は国防の義務から解放され、したがって国家への忠誠心は必要なくなりました。
憲法前文でも「諸国民の公正と信義を信頼して――」と戦争を放棄しています。平和主義を採用したため国防の義務がなくなり、愛国心も求められなくなったのです。
こう考えると文脈はつながり整合性も取れます。現在の日本人に愛国心が薄い理由を、筆者はこのように解釈しています。
愛国心総論
イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンは「愛国心はならず者の最後の拠り所」との名言を吐きました。果たしてこの言葉は正しいのでしょうか?
確かにネトウヨのような粗暴な輩が愛国心を声高に叫びます。愛国心を権威として利用する輩は後を絶ちません。
しかし一方で、立派な人が愛国心を抱いていた例も掃いて捨てるほどあります。
――掃いて捨ててはいけませんね。
「愛国心はならず者の最後の拠り所」という言葉は「見識のない粗暴な輩が愛国心を盾にして暴論を吐く」ことを戒めています。
盾にされた愛国心それ自体は否定していません。
否定しているのは「見識のない粗暴な輩」です。
愛国心を抱いていようといまいと、その人の持つ見識とは無関係です。愛国心を抱いているが見識のない人だっているでしょう。
愛国心を抱くなら、同時に見識も磨かなければなりません。
これは「包丁を持っている人がみんな、美味しい料理を作れるわけではない」ことに似ています。
中には粗暴にも包丁を振り回す人もいるでしょう。
では包丁は否定されるべきか? 否定されるのは粗暴な人であり、包丁ではありません。愛国心も同じですよね。
イギリスの小説家ジュリアン・バーンズはこう言いました。
「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ」
愛国心とは国家への忠誠であり真心です。真心とは、付き従うことだけを意味するのではありません。「忠言耳に逆らう」のことわざの通り、最高の愛国心とは耳に痛いのかもしれません。
まとめ
日本では有用な愛国心の議論が少数です。すぐに国粋主義に走ったり、極端なことを言い出したりする議論が多数です。
特にネット上では「しっかりした議論だが難しい」か「バカバカしい議論」のどちらかしか見受けられません。
「しっかりした議論だがわかりやすい」がありませんでしたので、自分で書くことにしたのが今回の記事です。
少しでもあなたの役に立てましたら幸いです。
>現在の日本人に愛国心が薄いのは、単に、自国を自分たちで守らなくてよかったからです。
その結果どうなったか?各界の指導者を含めた大多数の国民が「正しい国家観・歴史観」を喪失しました。その証拠に、ソ連(ロシア)や韓国によって久しく領土主権(北方領土や竹島)が侵害され続けていても、あるいは、冷戦終結後、度重なる米国のグローバル資本優遇政策によってとことん国益が破壊されても、さらにアジアの覇権国となった中国によって領土主権(尖閣)が脅かされ、中国資本によって国土が次々と爆買いされていても、他人事モードで平然としていられるようなダメ国民へと堕落しました。
今後、我が国は「かつて経済大国と呼ばれた、アジアの劣等国」へと転落し、そして米国が東アジアから手を引いた瞬間、独裁覇権国家=中国の軍門に下り、多くの日本人は哀れな奴隷民族として辛酸を舐め尽くすことになるでしょう。今から20年後か?あるいは10年後かも?今の高齢者はぎりぎりその惨状を目の当たりにすることはないかと思いますが、今の40、50代は生き地獄の光景を目の当たりにするかもです。
私、ちょうど40歳。目にするのはイヤですねぇ。
大阪の人が抱く東京の人への対抗心は、愛郷心以上愛国心未満って感じでしょうかね・・?(野球の巨人・阪神戦みたいな・・)
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愛国心は民族主義か?
韓国などは、徴兵制の軍隊がありますが、あんまり愛国心があるようには見えません。
というよりも、大韓民国への愛国心よりも、南北含めた朝鮮民族というものへの憧憬が強い印象です。
ですので、帰属先が大韓民国よりも、統一朝鮮に重きがなせられていて、大韓民国がおろそかにされているようにさえ見える時があります。
そういうふうに考えると、民族主義はこれは愛国心とかなり近しいところにあるのではないかとも思います・・が、もう一つ、愛国心を成す例があるとすれば、それはその国家の構成員による共通認識、というものではないかと思います。
この例を持つ国家は比較的少ないとは思いますが、例えば、フランスなどは自由と平等を愛する共和国憲法、もしくは精神、といった感じです。
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風刺画は権利、一歩も引かず 革命以来の伝統、世論支持―テロは「フランスへの攻撃」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020103001239&g=int
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上記事件後の被害者教師へのフランスをあげての国葬等の動きを見ますに、今までは誰に対しても差別をしないということで、イスラム移民にもどちらかと言えば遠慮がちだった(ように見えた)フランスという国が変わってきたようにさえ見えます。
共和国の精神を新たな伝統としてきたフランスにとって、その精神(伝統)への挑戦はフランスへの挑戦だったようです。
ある意味ではこれが、今のフランス・ナショナリズムなのかもしれません。
しかし、これは共和国憲法・精神を伝統にまで昇華したフランスだからこそなせるわざなのではないかとも思いますので、日本においては微妙に現実的ではないのかもしれません。
日本で愛国心(というか、国民の結束)を保つには、これ以上の(産業界での低賃金労働の為の)大規模移民流入は、もう少し何とかしなければいけないのかもしれません。
そして、ドイツのような民族主義(愛国心、ひいては国民の連帯)の解体を、できうる限りにおいては未然に阻止しなければならないのではないかとも思います。
エスノセントリズムやナショナリズム=民族主義と言えなくもありませんが、愛「国」心=民族主義ではありません。
しかし近しくはあると思います。
日本がそれなりにまとまっているのは、もしかしたらほぼ単一民族ということも大きいのかもしれませんね。