世界で民主主義が少数派になった理由は民主主義の理想への幻滅

 世界で民主主義国家が少数派になったと報じられました。しかし日本ではあまり危機感を持たれていません。

 1998年から増加を続けていた民主主義国家は、2020年に退潮を明確にしました。2019年の調査では世界に民主主義国家は87、非民主主義国家は92になったとのことです。
 民主主義国家は少数派に再び転落したのです

 どうして民主主義国家が少数派に転落したのか? 民主主義を採用したのに、どうして世界の国々は再び非民主主義に転向したのか?

 この問いへの答えは「民主主義の抱える構造的欠陥」にあると筆者は考えています。構造的欠陥とは「少数派の尊重・賢明な市民」という幻想と、リベラル・パラドックスです。

 それぞれできる限りわかりやすく解説します。

 なお最初に明言しておきますが、筆者は民主制・民主主義をわりと支持しています。

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民主主義と多数決

 世界で民主主義が少数派になったことへの理由を考えるなら、まずは民主主義そのものの不都合さをフォーカスしなければなりません。

 民主主義は主権者による全会一致を理想としますが、それが不可能なために最終的には多数決を採用すると説明されます。
 多数決に至るまでの過程に熟議が重ねられ、少数派に配慮がなされ、そうして採決することが民主主義の理想です。

 しかし理想はあくまで理想。現実はどうでしょうか。

最終的に多数決に頼る民主主義

 最終的な多数決は民主主義のシステムとして決められています。しかしその過程における熟議や少数派への配慮は、ルールとして定量的に設定できるものではありません

 例えば熟議は、課題によって必要な時間が大きく異なります。一律に「熟議は50時間」などと決められません。少数派への配慮も同様です。

 とすると民主主義の理想である熟議や少数派への配慮は、理想や努力目標に過ぎなくなります。すなわち全会一致が理想だとしつつ、多数決を採用することと変わりません。

 そして理想とは現実に起こりがたいから理想なのです。

 現実的を自称する政治勢力なら、多数派の奪取による決定権の確保をもくろむでしょう。
 そして実際に「嘘をついてでも票を取ること」「デマを流してでも支持を得ること」が恥知らずにも行われています。

少数派の尊重は実現可能か

 民主主義は少数派を尊重し、配慮すると言われます。そうしなければ民主主義は多数の専政に陥り、少数の国民を抑圧するからです。

 しかし実際は多数派が少数に配慮するのは「自分たちの利害を侵さない限りにおいて」です。多数決で最終的に譲る必要がないのに、損をしてまで少数派を尊重するでしょうか?

 自分たちが損をしてまで少数派に譲歩するとしたら、多数派を形成する意味はありません。

「しかしEUでは、ムスリムや移民への配慮が行われているではないか」

 こういった反論もあるでしょう。それは「ムスリムや移民を尊重しなければならない」と考える人が多数派だからに過ぎません。

 表現を変えれば「少数派を尊重しなければならない」とする人が多数派でなければ、少数派は尊重されないのです。
 つまり「少数派を尊重しなければならない」が少数派になった時点で、少数派は尊重されなくなります。

 少数派の尊重とはそれ自身を、多くの人が理想と信じることでしか成り立たないのです。

個人主義・合理主義の蔓延と民主主義の瓦解

 グローバリズムや新自由主義の蔓延、もしくは日本においての失われた20年で個人主義や合理主義・効率主義が蔓延っています。

 こういった世界観は共同体という「非効率的なもの」を拒否します。共同体の拒否とはすなわち国家・国民としての連帯感の拒否です。

 連帯感がなくなれば「同じ国家の仲間」意識がなくなり、少数派への配慮などは夢のまた夢

 常に少数派であり続ける人たちは民主主義を信用しなくなり、民主主義は多数の専政や全体主義へと形を変えます。
 すなわち民主主義の瓦解が訪れます。

 行き過ぎた個人主義や合理主義、効率主義は民主主義を破壊します。

自由民主主義は最適解を導かない

 民主主義が少数派を尊重することは、その理想を信じる人が多数派でないと成り立たないと検証してきました。

 民主主義国家から非民主主義国家に転向した国々は、その理想を信じ切れなかったのでしょう。
 しかしそれだけではありません。

 自由民主主義そのものに構造的な欠陥が存在します。

賢明な市民という幻想

 民主主義の大前提は市民が賢明であることです。知的水準が高く思考停止せず、適切な政治選択を行える市民が必要です。

 しかし賢明であるとはどういうことでしょうか。民主主義の理想を信じ、少数派に配慮する寛容さ、多数決で決められたことには従う従順さを持つ人たちです。

 まず、市民が賢明であった時代はありません。多数派の市民はむしろ間違いを犯すことが多い。
 次に賢明さは民主主義の規定する賢明さとは限りません。狡猾さや効率主義に陥っているケースも、見ようによっては賢明でしょう。

 市民が賢明であったとしても、民主主義的な賢明さではないかもしれません。

 賢明な市民という理想は、現実的には幻想とすら表現可能です。
 これが民主主義の構造的欠陥の1つめです。2つめはリベラル・パラドックス。

リベラル・パラドックス

 リベラル・パラドックスとは1998年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センの議論です。

 非常に端的に言えば「意見の集合の中で妥当な最適解を見いだしても、その最適解に自由主義は原理的にたどり着けない」というもの

 ここで重要なのは「他の政治形態ならたどり着けるのかどうか」ではなく、「自由主義は構造的・原理的にたどり着けない」という点です。
参照:
この世界が「不自由」であるたった一つの理由 | ダイヤモンド・オンライン
自由主義のパラドックス | 読書猿

 リベラル・パラドックスの詳細は上記を参照してください。
 少し説明しておくと「同じ事柄について3つの選択肢を、AさんとBさんが採りたい順に並べる。それぞれを勘案した最適解が存在するにもかかわらず、自由主義の原則から導き出される回答は最適解とは異なる」というもの。

 もっと簡単に言えば「AかBかCか……うーん、ここはAかBやな!」と悩んで、なぜか最終的にCを選んでしまうこと似ています。

 つまり自由民主主義は国民を主権者として尊重する代わりに、最適な結果を導き出せないという構造的欠陥があるかもしれないというわけ。

 尊重されて間違い続けるか、尊重されずに最適解が採用される可能性にかけるか。それが世界の民主主義を採用した国家が、非民主主義国家になった理由の1つです。

世界で少数派になりつつある民主主義国家

 ここまで「少数派の尊重」「賢明な市民」が幻想であったこと、そしてリベラル・パラドックスによって「民主主義は往々にして構造的に最適解を選べない」ことを解説してきました

 逆に非民主主義から民主主義に転向した国々は「多数の専政」や「賢明で我慢強い市民を演じさせられた」「その上、最適解を選べない」などを、民主主義で体験させられたと言えます。

 強権政治による少数への配慮があったとしたら、民主主義による多数の専政と比較してどちらがマシなのでしょうか?
 強権政治によるある程度の最適解への到達があったとしたら、原理的に到達しない自由民主制に魅力があるでしょうか?

 こういった問いを、民主主義に転向した国々は突きつけられたのです。無力感から強権政治を望んでも不思議はありません

 加えて国際政治の場で民主主義国は不利です。

 民主主義は決定が遅く、国際政治の場での最適解と国民の意思がズレることもままあります。アメリカが凋落し中国が台頭している現実を見れば、民主主義国家が国際政治に不利なことは明白です。

「東西冷戦ではソ連にアメリカが勝利したじゃないか!」
 こういった反論もあるでしょう。しかしそれはアメリカが例外的に異例だった、と考える方が自然です。歴史上、アメリカほど強大だった覇権国家は珍しいのです。

 さらに世界情勢が長期停滞と米中衝突、コロナ禍で不確実性が増している現状も拍車をかけています。
 自分たちが尊重される民主主義より、強権でも強いリーダーに率いてもらいたいと考えるのは自然です

 こうして世界では非民主主義国家が隆興し、民主主義国家が退潮しています。

世界で起きている日本に不都合な現実

 非民主主義国家の隆興と民主主義国家の退潮は10月に報道されました。しかし日本ではイマイチ、危機感を持って受け止められていません
 それどころか対岸の火事、といった具合。

 中国はまごうことなき強権国家・非民主主義国家・覇権主義国家です。中国は自国の安全保障のために、将来的には日本を属国化したいはず。

 上記が真ならば日本の民主主義は危機に陥っていると言えます
 世界的な民主主義の退潮も、それに輪をかけて危機感を煽ります。

 ところが当の日本は危機感ゼロ。これはなぜでしょうか?

 理由はいくつか考えられます。

 第一に、日本国民は民主主義など大事だとは思っていないかもしれないから。年々下がりつつある投票率や政治への無関心などを見ていれば、こう解釈するのも自然でしょう。

 第二に、日本はすでにアメリカの属国であり、そもそも民主主義は機能していないから。アメリカの政治学者の中には日本を保護領・属国とストレートに表現する人もいるのだとか。

 属国であるとすれば宗主国・主権者はアメリカです。したがって日本国民は日本の主権者ではなく、そもそも民主主義が成り立っていないとも考えられます。

 第三に平和ボケ。すなわち中国の属国になるなどあり得ないことで、日本は主権を永続的に守ることができると信じているのかもしれません。
 振り上げる拳すらないこんな国で?! と、皮肉の一つでも言っておきましょう。

 単に認知不協和で世界の現実を受け止めきれず、スルーしているだけという可能性もあります。

まとめ

  1. 「少数派を尊重しなければならない」とする多数派が存在しないと、少数派は尊重されない
  2. 多数の賢明な市民など、ほとんど幻想の産物
  3. 効率主義の蔓延で国家の連帯感が損なわれ、余計に少数派は尊重されなくなる
  4. 尊重されない少数派は民主主義への懐疑を抱く
  5. リベラル・パラドックスによって自由民主主義は、原理的に最適解を導き出せないかもしれない
  6. こういった民主主義の現実に、非民主主義国家へ転向した国々は疲れたのではないか
  7. 国際政治の場でも非民主主義国家の方が有利

 上記でまとめたような理由で、民主主義国家は世界で少数派になったのではないかと思います。

 歴史上では民主主義国家が存在した期間の方が少なく、民主主義国家はイレギュラーなのかもしれませんね。

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Muse
3 年 前

>表現を変えれば「少数派を尊重しなければならない」とする人が多数派でなければ、少数派は尊重されないのです。

なるほど、ごもっとも。

ところで、日本社会における少数派であるLGBTに対する不当な差別や偏見は取り除くべきですが、だからといって本来の性差を否定するジェンダーフリーの思想が蔓延すれば、そもそも国民国家の基盤である家庭が破壊されかねない。ところが、このジェンダーフリーの思想が日本社会でさほど危険視されていないのは、この手の思想を容認する人間が多数派を占めているからでしょう。緊縮財政やグローバリズムの容認と同様、ジェンダーフリーの容認は日本を滅ぼす元凶の一つ。

Muse
Reply to  高橋 聡
3 年 前

仰る通り、ジェンダーレスの方です。混同してました。ただ、Wikiにも書いてありますが、教育現場では「ジェンダーフリー教育」と称して、事実上のジェンダーレス教育が実践されているようです。両者は似て非なる概念で混同しやすいだけに、ジェンダーフリーなる言葉が喧伝されるのはやはり危険な感じがします。

阿吽
3 年 前

>表現を変えれば「少数派を尊重しなければならない」とする人が多数派でなければ、少数派は尊重されないのです。
>つまり「少数派を尊重しなければならない」が少数派になった時点で、少数派は尊重されなくなります。

ここらへんは、難しいですね・・。

議会で多数派を形成しているからって、日本では意外となんでもできるわけではありません。

衆参両院で多数派を形成していても、なんでも自民党に都合の良い法案を全て通せるわけではありません。

これができてれば、国民投票法もすでに可決されていたでしょう。

また、それではなぜ、新自由主義的政策が議会で通るのかと言えば、それは本質的には主要な野党もそれに反対しているわけではないからではないかと思います。

つまりは、議会で多数を取っている勢力でも、「少数派を尊重しなければならない」という意見が世論の大半ならば、単独過半数勢力でも少数派への配慮はしなければならないのです。

ただし、議会制民主主義が機能しなくなり、一党独裁政治になった場合は、『「少数派を尊重しなければならない」という意見が世論の大半』でも、少数派は弾圧されると思います。

一党独裁の場合は、民主主義国家よりは世論への忖度をしなくてすむからです。

.
>民主主義の大前提は市民が賢明であることです。

自分としての大前提は、民主主義に不正がないこと、もしくは不正がないという信頼感を国家がきちんと得ていることですかね・・。

まあ、不正をなくすためにはある程度の賢明な市民と言うのが必要なのかもしれませんが・・・。

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>強権政治による少数への配慮があったとしたら、

これはそれほどには存在しないと思います。

強権政治にとって、少数派とは『エサ』です。

おいしいエサです。

一党独裁政治や独裁政治下においては、少数派は多数派を満足させるためのエサになるだけかと思います。

ただ、ある程度、他民族社会の場合は、オスマントルコやオーストリア・ハプスブルク帝国みたいに、《政府に反抗しないかぎりにおいては》(2等市民として)尊重される(弾圧されない)というのは付く可能性はあります。

ただ、中国のウイグル問題やチベット問題のように、または現トルコのクルド人弾圧のように、基本は弾圧されるだけの可能性がかなり高いのであまりおすすめはできないかとは思います。

強権政治で指導者が満足させるのは、基本としてはその国の多数派で、少数派が満足させられるのはよっぽどの例外を除いては無いと思います。

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>自分たちが尊重される民主主義より、強権でも強いリーダーに率いてもらいたいと考えるのは自然です。

多数派の国民なら、もしかしますと願ったりかなったりかもしれません、ね・・・。

とある詩にあるように、少数派の共産主義者や、社会民主主義者、労働組合員、そして最後には反ナチみたいな少数の反政府主義者みたいなものにはきっちりと弾圧をし、大多数の従順な国民に対しましては強権的な強いリーダーは優しいかもしれません。(ナチスドイツみたいに)

ただしその多数派も、結局のところは、ドイツの場合は悲劇的な戦争に駆り出されてしまいましたが・・。

また、民主主義国である日本や韓国、アメリカでも、ここ最近立て続けに比較的強権的な指導者が出ていますね。

まあ、アメリカでは強権的なトランプが再選できませんでしたが・・。それとも、BLMのようなものの支持者の方が多数派になって、WASP(もしくは貧しい白人)がついに少数派になりましたかね・・・・?

まあどちらにしろ、アメリカについては左右の分断は一層激しくなったかとは思いますが・・。

阿吽
Reply to  高橋 聡
3 年 前

民主主義への幻滅というのは、私ははっきりとはなんとも言えませんが・・、

少なくとも、既存の政治への失望はあるかとは思います。(その既存部分が民主主義なのか、ベラルーシのように独裁政治なのかはなんとも言えませんが・・)

アメリカでしたら、共和党と民主党の政治ゲームに置いてけぼりになった、ラストベルトの労働者等の、その既存政治への失望が、結果としてトランプを生み出したりはしましたが・・。

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>バイデンがどういう人なのかはあまり知らないのですが(汗)

まあ、親中派だとかの噂のある人ではありますが・・、ただ、結果としては、実は外交面においてはトランプ時代とそこまでは変わらないのではないかと思っています。

おそらく、議会の意見をどの道無視はできないのではないかと思いますので・・。(対中外交とか、もしくは、米軍の撤退的な選択も)

(もしくは、トランプ流になれた共和党が、民主党とバチバチにやりあって、議会そのものが紛糾する可能性もありますが・・)

強いて変わるとすれば、日本に韓国への徴用工裁判での譲歩を望むようになる可能性があるところですかね。(まあ、どうなるでしょうかね・・)