先日、Twitterで以下のようにつぶやきました。
筆者は「ネット上の議論は99%無駄」と思っています。その理由や構造について、深掘りして解説します。
そもそも議論の役割とは?
そもそも議論とは? なぜ議論するのか?
議論の定義は広いですが、議論とは「ある命題が正しいかどうかを、協力して明らかにしていく行為」だと筆者は定義しています。
相手を言い負かすだけなら「言い合い」、事の是非を判断するなら「批判」「批評」です。
余談ですが批判とは「相手の悪いところを言い立てること」じゃありません。善し悪しを見極めて判断、評価することです。
「○○は大変素晴らしいことだ!」も、批判のひとつです。
閑話休題。つまり議論とはアウフヘーベンしたり、正しさを見極めたり、新たな発見をしたりする協力プレイです。
試しにネット上で議論と言われているような何かを、リアルの会議の議論でしてみてください。白い目で見られること請け合いです。
ネットの議論が無駄で不毛な理由
ではここから、ネットの議論が無駄で不毛な理由を解説していきます。
前提が共有できない
そもそも議論が協力プレイだとすると、お互いの知識がどの程度か? 相手の人となりは信頼できるのかどうか? など、前提を共有しておかないと成り立ちません。
ネット上でそんな前提は、共有できるはずがありませんよね。
知識のレベルからして、どの程度相手が理解しているのかすらわかりません。これで有益な議論ができる、と思っている方がおかしいです。
AとBどちらかが正しいとの思い込み
ネットの議論では「AとBのどちらかの主張が正しいはず」との前提条件が見られます。最初のツイートで紹介しましたが「AとBどちらも正しい」「AとBどちらも間違っている」ことだってあります。
というか、そういうケースの方が多いです。
けれど「Aが正しくてBは間違っている」という議論が、ネット上のほぼ全てを占めています。お互いに「相手が間違っている!」とムキになるのですから、最後はおおよそ罵り合いで終わります。
もしくは過去の揚げ足を取ったり、相手にダメージを負わせるべくさらりと中傷してみたり……。これは全て「自分が正しいはずだから、何をしても許される」という心理から発生しています。
つまり議論をふっかける=相手が間違っている
「AとBどちらかが正しいはず」との前提で議論が発生するとすれば、議論をふっかける方は「自分が正しいから議論をふっかける」のです。
従ってどのケースにおいても、相手は間違っているとの前提じゃないと議論は発生しません。
ね? バカバカしいでしょ(笑)
議論をふっかけられた方は、暗に「お前は間違っている」と言われています。よってふっかけられた方も、必死になって反論せざるを得ません。
主観による自分が正しいとの思い込み
なぜ議論をふっかけるのでしょうか? 自分が正しくて相手が完全に間違っていると、なぜふっかける人たちは思えるのでしょう。
端的にいえばバカだから、としか言い様がありません。
「相手が間違っているから正してあげる(上から目線)」とか「相手を言い負かすことで優越感を感じたい」とか「暇なので相手させて議論で遊びたい」とか、思いつく理由は自己中心的なものばかりです。
ちなみに自分が正しく、相手が間違っているのですから、相手がどれだけ正当性のある反論をしても「それは有効な反論とは言えない」「反論として弱い」などの主観で、100%納得しないのが議論厨です。
ネットの議論の99%は得るものがない
ネットの議論構造を明らかにしてきました。議論を仕掛ける方は「自分が正しい」と思い、相手が折れるまで主張し続けます。
こんな議論に巻き込まれて、そもそも論として得るものがあるか? と言われれば、ありません。よって筆者は「ネットの議論は99%無駄です理論」を提唱しています(笑)
政治経済ブロガーが議論が無駄といってはばからない理由
議論それ自体を目的として、ネット上で議論することは無駄で不毛です。
そもそも議論の目的が「新しい知見を得たり、考えをアウフヘーベンしたりするため」であるなら、相手と「言い合う必要」はありません。
むしろ書籍を読んだり、見込んだブロガーの記事を読んだり、Twitterでフォローしている人の考えを見たりでOKです。
筆者はブロガーとして「知識的な価値の提供をすることで、読者を増やすこと」が目的です。なぜなら読者が増えれば、主張しているイデオロギーも少しは浸透するかもしれないからです。
Twitterも一緒ですね。フォロワーが増えれば、自分の主張が多くの人に知ってもらえるかもしれない。
つまり議論自体を目的としていません。よって政治経済ブロガーの筆者が、ネット上の議論を無駄といってはばからないことは、矛盾が生じなかったりします。Twitterはどうなのでしょう? そこまで人に絡まないので、よくわかりません(汗)
ネットで議論を仕掛けて時間を奪う時間泥棒
ネット上で人のブログに乗り込んで、議論らしきものをふっかけて来る人は後を絶ちません。Twitterでもおそらくそうなのでしょう。
議論厨はとにかく、自分の主義主張を押しつけないと気が済みません。けれどそれ、無駄で不毛な時間泥棒です。
議論らしきものはしたい人同士でするべき
ネット上の議論は99%無駄ですが、したいならしたい人同士でするべきではないでしょうか。
たいていの人は仕事や家族、読書等々。ネットの議論以外の有益な時間の使い方がしたいものです。ある意味でネットの議論は、ゲームなどと一緒の「趣味の領域」でしょう。
であれば「趣味の合う人同士で、好きなだけやってほしい」と思うのが普通です。
ちなみに筆者に、そのような趣味はありません。
議論をふっかけられると反論してしまう人の性
議論をふっかけられる=お前は間違っている宣言ですから、たいていの人は「いや、間違ってないし」と反論します。
最初から相手がけんか腰ならスルーもできますが、丁寧な口調かつ押しつけがましい議論厨はやっかいです。
「こうではないですか?」と聞かれて「いえ、こうです」と答えたら、いつの間にか議論に巻き込まれる羽目になります。
議論厨はやっぱり、議論厨同士で議論らしきものをするべきです。
そのネットの議論、ハッキリいって誰も見てない
「ROM(読んでいる人)がいるから、議論も無駄ではない!」との反論がありますが、それが議論をふっかける正当性を担保するものではないですよね。
「お前が時間と労力を使って犠牲になれば、ROMが喜ぶんだからそうしろ!」と言っているに等しいです。押しつけがましいどころか、最悪です。
なお筆者の場合、コメント欄やTwitterで議論もどきをするより、記事を書いた方が多くの人に見てもらえるので、さらに意味がありません。
議論厨も「多くの人に自分の意見を知ってもらいたい」のであれば、Twitterでフォロワーを増やすなり、ブログでPVを増やすなりしたらいいと思います。
結論 議論こそ正しさを導けるという幻想
民主主義では議論が大切! だから議論するべき! という主張があります。議論の定義で明らかにしたように、議論とは自身の知見を高めるために行うものです。
読書で本の著者と議論する、思考にふけって自分自身との対話を通じて議論するetc……。ネットでなければならない理由は、なにひとつありません。
また議論こそ正しさを導ける手段、というのも間違いです。特に政治では、農業と工業、大都市と地方、富裕層と貧困層など利害関係の対立があります。
一方にとって正しい結論は、たいていの場合はもう一方にとって最悪の結論です。
正しさが立場によって変わる以上、議論によって正しい答えが導き出せると思うのは傲慢です。
まっとうな議論が導き出せるのは「よりよい答え」だけです。
なお「まっとうな議論」に、ネット上のほとんどの議論が含まれないことも付言しておかなければならないでしょう。
SNSでの議論って本当に不毛ですよね
面と向かって対話するならいいんですが、ネットの海では全く建設的な議論がなされず結論が出ないことが散見されてるように感じます。
これに関しては、私も同意見ですね。
後は前記事の金融政策のみでインフレが止まるかどうかですね、アメリカのレーガノミクス等の民間主導原理が果たして正しかったのかという所には疑問符がつくところです。
中野剛志先生の本にも、当たり前のように財政出動がインフレを活性化させ、租税や累進性を強める事がインフレを抑制する、と書いてありますが、金融のみで経済を動かすのはリスクが高く、バブルを誘発する危険性があります。
私的にも1文「税率を高める」と言うような記述をして修正した方がいいような気がします。
いきなり絡まれてびっくりするのは確かだと思いますが、話してみるとなるほど、と思える所があるのは確かです。
(SNSの悪い所は相手が誰だか分からないところにありますし、拒否反応を覚えるは分かりますけどね)
あ、でも税率を高めるって書いてありますね。
うーん、順序の話ですかね。
政府主導で、という所が味噌なのでしょう。
経済というのは不確かで曖昧な所が面白いですが、だからこそこういう論争が起こりやすいんでしょうね。
インフレの解説記事だと思うのですが、書いてありますよ~。
ネットの議論は昔から参加したり眺めたり、巻き込まれたりしてました。
何も今回だけ、というわけで記事を書いたわけでもなかったりしますよ~。