本当の合理性の意味とは何か?知らない貴方にわかりやすく深掘り解説

 「合理的に判断して……」「経済合理性では……」など、いろいろな場面で合理性という言葉が使用されます。

 社会では合理的であること、合理性があることがよいとされる風潮です。効率的に、合理的に生きるのがもっとも賢いのでしょうか? 合理性ばかり追求していては、窮屈ではないですか?

 国語辞典には書いていない、合理性の本当の意味とは? 知ればきっと、考え方に変化が生まれるはずです。

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合理性とは?

 まず合理性の定義をウェブの国語辞典から引いて、その後にやさしくかみ砕いて定義していきます。

国語辞典から合理性の定義を引くと

  1. 道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。
  2. むだなく能率的に行われるような物事の性質。「合理性に欠ける役割分担」

合理性(ゴウリセイ)とは – コトバンクより

 2.はわかりやすいですよね。無駄がないこと、つまり効率的に作業が行われるのが「合理的であり合理性のある判断や行動」と解釈できます。

 1.は誰が読んでも、ちょっとわかりにくいです。理由は「道理」や「論理」とは何か? がわかりづらいからです。

 道理の意味を引きますと、以下です。

  1. 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。「道理をわきまえる」「道理に外れた行為」
  2. すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。「言われてみれば道理な話」

道理(ドウリ)とは – コトバンクより

 簡単にかみ砕けば「人が正しいと判断する行為や話」には「道理がある」とされます。論理は「思考や論が道理にかなっているかどうか」と解釈しておきましょう。

 合理性がわかりにくいのは「正しいとは何か?」が、定義されていないからに他なりません。

漢字から見る合理性とは

 ウェブの国語辞典から引く限り、合理性とはどうやら「正しいことをする性質」と言えます。

 日本語には漢字があり、漢字には意味があります。漢字の意味からも類推してみましょう。

理性に合致する

 合理性とは「理に合う」と書きます。すなわち「理性と合致すること」「理性的であること」が、合理性にかなうことです。

理に合う

 合理性は単純に「理に合うこと」と読み替えてもよいでしょう。理とは道理であり、論理であり、物事の仕組みや善悪の判断です。すなわち理とは「正しさ」に他なりません。

 やはり合理性とは「正しくあることそのもの」と、定義してよいでしょう。

合理性の理とは何か?

 理とは正しさですが、ではその正しさとは何か? を解き明かせば、合理性とは何かが見えてきます。

単純化した基準で判断するのもひとつの理

 判断基準にする要素が多くなるほど、物事は複雑化していきます。「正しいこと」を判断するのが難しいのも、現実が複雑だからです。

 けれど例えば、金を稼ぐことは正しい! と仮定すると、金銭基準のみで多くのことを判断できます。これもひとつの理と言えば、理でしょう。

 なぜなら……後述しますが理とは、信仰に他ならないからです。

企業と宗教の合理性

 企業にとって利益を上げることは「正しいこと」です。合理性で企業の行動の善悪を判断をするとすれば、利益がひとつの基準になります。

 宗教にとって神を信仰することは「正しいこと」です。合理性で信徒や社会の善悪の判断をするとすれば、信仰の深さがひとつの基準になります。

 利益には合理性があり、信仰には合理性がないように感じますか? けれど待ってください。突き詰めれば個人で正しいことなど、人の数だけあります。

 宗教や信徒にとって「神を信じることや信仰」は、合理性にかなう行いなのです。彼らにとって信仰は道理にかなうことだからです。

真の理、真理に理性はたどり着けるか

 人それぞれで合理性の定義が異なるとすれば、合理性は主観の問題になってしまいます。主観の問題だとすれば、理性に合致しませんよね?

 合理性という言葉は前提条件として「どこかに真の理、つまり絶対的に、誰にとっても正しいことが存在する」ことが必要になります。

 現代からすれば朱子学は非合理的学問かもしれませんが、その当時は合理性がある合理的学問でした。なぜなら朱子学こそが、心理を学べる学問だと「信じられていた」からです。

合理性とは突き詰めれば信仰

 合理性とは「正しいこと、すなわち理に合致すること」です。合理性は真理が存在しないと成り立ちません。

 しかし人類の歴史上、真理に辿り着いた人間はいないはずです。少なくとも真理と呼べる価値基準は、人類に広まっていません。真理なるものが存在するかどうかすら、怪しいものです。

 とすると合理性とは、突き詰めれば信仰に等しいのです。「それが正しいと信じること」でしか、人は合理性を発揮できないのです。

 現代社会の合理性とは、金銭的価値基準や利益、効率などによって判断されています。多くの人が「お金こそ正しい」「効率的であることこそ正しい」と信仰しているからです。

効率性と合理性ばかりでは人生が色あせる

 日本人は失われた20年、いや30年でくたびれた印象があります。ひたすらに効率性と合理性を追求した結果、人間味が社会から失われているのではないでしょうか。

 コロナ禍では、自粛警察なる動きがあるようです。自粛こそが正しく、コロナ禍を抑える方法であると信じ、自らの合理性を頼って他の人を責め立てるわけです。

「お前がそんなことをするから、効率的にコロナが抑えられないだろ! お前みたいなやつが、コロナを広げるんだ!」

 その人がコロナ患者ではないというのに!

 確かに効率性や合理性が、必要な場面もあるでしょう。しかし人間、正しいことばかりでは疲れるのですよね。

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プロフェッサーカオス
5 月 前

ジブリ関連で唯一挫折せずに見れる映画が火垂るの墓だったりする
火垂るの墓では、節子と、あんちゃんが最後はどちらも死んでしまう

火垂るの墓の論評でこのような論評を見たことがある

「子供の時は、あんちゃんと節子を可哀想だと思ったが、大人になってからは見る目が変わった。
二人は、合理的な判断が出来ておらず、意地悪されても耐える事が合理的判断だった、戦争中にわがまま言いおって・・・大人になってからは自業自得の死であると思うようになった」

という火垂るの墓論評を見た事がある。明らかに自己責任主義史観と言える。

「大人になってから」と言いつつ、ガキになっているように思えるw幼稚な思考に逆戻りしている

というのも
「人間はいついかなる時でも合理的な判断が常に出来る、365日24時間、常に合理的でいられる、それは子供でも同じである」という考え方がなければ、そういう論評にならない為だ

そいつの人生を見てみれば非合理性に満ちた行動ばかりしている事だろう、ツッコミどころ満載の
特にガキの時代は・・・

ただ、節子とあんちゃんは運悪く、戦争末期という悲惨な時期だったがゆえに、つまらん一つの判断ミスが非業の死という結果になった、という映画のはずだが
異世界無双モノみたいなものばかり普段読んでいるのかな?そういう考えに至れないみたいだ
判断ミス一つで死ぬような世界にいた経験もないくせに

「人は常に合理的ではいられない。特に子供ならそれは尚更である」
こんな事は大人なら誰もがわかっていて、当然の事のはずだが、合理主義に染まると人は思考が幼稚になるらしい・・・
いったい子供に何をどこまで求めているのだろうか?幼稚な合理主義者は人に求めるモノも大きすぎる傾向があるように思える

まあ中二病の一種みたいなもんなのかw