愚民とは?衆愚政治と断ずる言論人が陥るワナ-言論は愚民相手に無力なのか

この記事は約6分で読めます。

 政治経済論を議論していると必ず、愚民というテーマにどこかで行き当たります。イデオロギーの左右に関係なく。
 しかるに愚民というテーマは、真剣に日本で論じられてきたか? はっきり申し上げてテーマのイメージが悪すぎて、論じられてきてません(笑) 代わりにオルテガの大衆論を、論じることがせいぜいです。

 本稿では真剣に、愚民というものを「いち政治経済ブロガー」として哲学してみたいと思います。

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愚民の意味とは

 あまり解説しなくても良いと思いますが、愚民とは愚かで無知な民衆という意味です。一見して大衆と、あまり変わらないように思えます。
 大衆はPeople(人民)もFoule(愚民)も指します。大衆を「愚かかそうでないか」で区分けするのが愚民ないし人民という言葉になるのでしょう。

愚民化政策(愚民政策)とは

 愚民政策とは、人民の知性を劣化ないし失わせる政策を言います。古くはローマ時代のパンとサーカスが有名ですが、近代でも3S政策が有名です。
 独裁政権時代の韓国ないし、GHQに占領された日本で行われた政策で、3SのSは「スクリーン・スポーツ・セックス」です。

衆愚政治とは

 愚民による多数政治です。有権者のエゴイズムが反映された政治、とも言われます。この場合のエゴイズムは積極的な利益の追求とは限らず、現実逃避や現実の問題の無視、他人任せなども含みます。

 衆愚政治では議論の停滞、扇動や詭弁による世論の誘導によって政治が誤ります。扇動や詭弁によって、建設的な議論の機会が奪われることも問題です。

日本で愚民と定義されたB層とは

 詳しくは適菜収氏の著書、ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体が参考になるでしょう。B層とは、郵政民営化の広報企画で小泉政権の支持基盤と定義された人たちです。性質は「具体的なことはわからないけど、小泉総理(のキャラクター)を支持する人たち」のことです。
 現在の「愛国で保守(という設定、ないしキャラクター)だから安倍総理しかいない!」という理由の安倍政権支持者も、B層と解釈し得るでしょう。

愚民批判ないし言論人が陥る政治議論の落とし穴

 「愚民」という言葉は、パワーワードの1つです。私はあまり、用いないことにしています。ネトウヨの言う「反日」と同じ雰囲気を、愚民という言葉から感じてしまうからです。

 また愚民という言葉を議論で使用すると、いくつかの論理上の問題が発生します。

  1. 衆愚政治は多数が愚民でないと、成り立たない
  2. したがって日本が衆愚政治との言論は、多数が愚民であるとの言論と同義
  3. 多数が愚民であるのならば、言論活動は常に結果が出せないものになる

 要するに「Aという政策が止められないのは、衆愚政治だから」と理由付けると、それを発する言論自体の意味が失われるわけです。
 したがって言論活動をする人は「民衆はAという情報を知らないだけ」と仮定せねばならなくなります。

本当に日本人が愚民だったら、というケース

  1. 衆愚政治で愚民多数と批判すると、批判(言論)そのものの価値や意味がなくなる。少なくとも批判することで、より良い結果を得ようとする行為ではなくなる
  2. よって言論人は「民衆は愚民ではない」と仮定せねばならない

 まあ「日本は愚民だらけではない」というケースなら、問題はありません。しかし「日本が愚民だらけ」のケースなら、言論人はどのような反応を見せるでしょうか。
 筆者はその答えを、じつは存じています。言論人が言論を吐かなくなります。なぜなら言論という行為そのものが「無価値で無意味な徒労」になってしまうからです。耐えられなくなるのです。

 これは「日本が愚民だらけかどうか」という客観的根拠ではなく、言論人自身の主観的な感じ方によるところが大きいでしょう。

言論活動に耐えられなくなる前にするべき思考

 衆愚政治や愚民というトピックに、筆者は「結構どうでもいい」というスタンスです。例えば大阪都構想に賛成する人に、憤ったりもしません。
 その上でまた住民投票なのは「大阪人、アホやなぁ……」とは思いますが(笑)

 政治や経済を論じていると、巨視的な視点に「陥りがち」です。ゆえに自分のブログの言論が、ひどく小さなものに見えるわけです。よって「何も変わっていない」と感じてしまいます。
 でもこれって、筆者に言わせれば「無知なSEO愚民、ライティング愚民」とも言えます(ジョークです)

 自身の言論やブログ活動は、もっとミクロに考えるべきです。
 例えば「現代貨幣理論 わかりやすく」というキーワードで、筆者の記事(進撃の庶民への寄稿)はグーグル検索3位です。当ブログの記事が5位。

 これって結構、すごい変化だと思いません? 現代貨幣理論に興味を持った人が「現代貨幣理論 わかりやすく」で調べたら、筆者の記事にたどり着くわけです。
 想像して、ちょっと冷や汗が出てきました(汗)

「政治愚民でネット賢者」と「政治賢者でネット愚民」のどちらが言論できる?

 いくら政治のことを知り尽くしていて、多くのことを語れようと……ブログに書けなければ言論出来ません。もっとも今は動画という方法もありますが――それはワキに置いてください。

 しかも政治的正論をかけば、読者やアクセス数が増えるというわけでもありません。ブログやネットには、それなりの伝え方ややり方があるのです。

 見出しで言うと「政治愚民でネット賢者」の言論のほうが広まります。もちろん「政治賢者でネット賢者」なら最強でしょう。

 案外「愚民」というのは、この程度のことなのかもしれません。「知らないし、勉強するのが面倒くさい。なぜならその分野は、自分の得意なところではないから」という程度の。

 こうなると「どうすれば興味を持ってもらえるのか?」が、これからの言論には重要になってくる気がします。

 ブログ記事の書き方を知りたい人は、以下の記事が参考になるかと思います。

 大衆や大衆社会については以下をどうぞ。

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黄昏のタロ

お邪魔いたします。

 コメントに割り込むのもどうかと思って、記事のテーマに合わせてこちらで。

>「嘘つき 総理」などはありましたけど、案外安倍総理が嘘つきなのは知られていないのかもしれません。

 考えてみました。
 嘘に気づくためには安倍総理の発言を聞き記憶していないと出来ないのではないかって思うです。意外と高度。個人レベルだと、言い間違い・記憶違いで嘘認定に至らない場合もでてくるでしょう。
 おいらは自民党に票を入れる気はないので、高度に安倍総理の悪い点を見つける必然性を感じないです。温度差になるのかな。

> 衆愚政治では議論の停滞、扇動や詭弁による世論の誘導によって政治が誤ります。扇動や詭弁によって、建設的な議論の機会が奪われることも問題です。

 「ネトウヨとパヨク」基準(?)なら扇動や詭弁を自ら検証しようと努力する事になります。同時に、それらに対する批判にも行われる事になります。
 押しの強い批判の文章は、相対する扇動や詭弁の論調と似たようなものになってる気がするです。考える余地を与えない。また、熱く語ることと伝わるのかは別なのだとも。

> しかも政治的正論をかけば、読者やアクセス数が増えるというわけでもありません。ブログやネットには、それなりの伝え方ややり方があるのです。

 レイの金色の本は理解しながら読もうとすると全然進まないです。本でもなのです。

伝える努力に感謝しないとですね。

Sat

大阪府に限定すれば大阪維新の支持者もB層のお仲間かもしれません。

Muse

>1.衆愚政治で愚民多数と批判すると、批判(言論)そのものの価値や意味がなくなる。少なくとも批判することで、より良い結果を得ようとする行為ではなくなる

いや、この1番目の仮定ですが、その愚民大衆なるものの愚かさが(長い歴史を通じて形成されてきた)「先天的」かつ「矯正不能」なものであった場合に限って成り立つものです。もとより、これについての客観的な基準などありませんが、とにかく「この民族は救いようのないバカで、もう処置なしだ」といえる場合にのみ成り立つ。逆に言えば、矯正不能な愚民でなければ、一部の賢者による啓蒙活動が地道に積み重ねられ、愚民たちの心情を揺り動かせるようになれば、愚民はもはや愚民でなくなる可能性もあるのではないか?

さて、日本民族がこうした先天的かつ矯正不能な愚民であるとは考えずらい。その最大の証拠は、「明治期という短期間で、日本が欧米列強による植民地化を免れてアジアで唯一の近代主権国家を樹立できたこと」です。もちろん、そのための下地は江戸時代やそれ以前から整えられつつあったといえるでしょう。

ただ、敗戦後のGHQによる占領政策と、戦後日本人が戦争に負けた悔しさから生ずる臥薪嘗胆の精神と自主独立の精神をあっという間に忘れ、無節操な対米追従路線あるいはお花畑空想的平和主義に現実逃避してからはや75年。日本人全体の愚民化はいよいよ深刻な、つまり民族の存亡にかかわるレベルまで達したと言わざるを得ません。

橋下政権以降の歴代政権の政治的失策による失われた20年、それからその総決算ともいえる7年間にわたる安倍政権による国家破壊政策の連続は、日本人精神の劣化、つまり日本人の愚民化が現実社会において顕在化した現象にほかならないといえます。

果たして、現代日本は(エリートから末端の大衆に至る)総愚民状態から脱することができるのか?

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