現代の民主主義社会での全体主義とは?ハンナ・アーレントから読み解く

 全体主義とは一般的に「全体に個人が従属するイデオロギー」と言われます。しかし全体主義を深く洞察した哲学者、ハンナ・アーレントによれば現象だそうです。

 全体主義という現象は、どんなイデオロギーとも結着します。例えば――リベラリズム・全体主義というものだってありうるのです。

 多様性・全体主義とも言える例を引きます。
 多様性は大事でしょう。しかしネットでは「多様性を大事にしろ!」という押しつけも見られます。お気づきでしょうか? 押し付けている時点で、相手の多様性を認めていないという矛盾が生じます。

 主張している本人は善意でしょう。言われた相手も、なんとなく「俺が悪いのか?」となります。些細な現象ですが、全体主義のイメージとしてわかりやすいです。

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全体主義の歴史

 全体主義という言葉が登場したのは、第一次世界大戦です。当時は肯定的にも、否定的にも使用されたようです。国家総力戦の連想から生まれた、とされています。

 我々現代人が全体主義として思い浮かべるのは、ナチズム、ファシズム、共産主義です。日本の軍国主義も、思い浮かべるかも知れません。
 全体主義という現象は、時代の空気と言い換えても良いでしょう。
 第2次世界大戦時の日本が、全体主義かどうか? かなり疑義があると思います。アメリカもまた、太平洋戦争当時は統制社会であり、同じようなものだったからです。

 中でもナチスドイツが、全体主義だったことに異を唱える人はいないでしょう。

 ヒトラーは民主主義から生まれました。第一次世界大戦の敗戦、多額の賠償金によるハイパーインフレ、そして1929年の金融危機によるデフレと高失業率。
 ヒトラーが首相に指名されたのは、1933年です。

 人々が熱狂的にヒトラーを求めた裏には、どうにもならない生活への不満と、ある種の既存国家やリーダーへの諦観がありました。
 大衆の求める強いリーダーとは、何かと常に戦わなければなりません。
 ユダヤ人敵視政策は、大衆の不満のはけ口としての役割があったのです。

全体主義の構造とハンナ・アーレント

 全体主義とは、いじめの構造とよく似ています。
 鬱屈した感情、ストレス、不満、ルサンチマンなどが、奔流する状態が全体主義といえます。敵を見つけて叩くという”空気”が、全体主義の本質です。
 いじめも加害者ないし傍観者は、”空気”ですることが多いようです。
 誰も止めに入れない。これもまた”空気”です。

 アーレントは「悪の凡庸さ」という現象を、報告しています。
 全体主義に加わる人間は、悪意も信念も特別な意図もない。ただ思考停止して、空気に付き従っていただけというのです。

 沈黙の螺旋という仮説があります。多数派の声の大きさを恐れ、孤立を恐れるのが人間です。したがって少数派は、次第に沈黙していくのです。
 ナチスドイツでも良識ある官僚は、そっと職を辞したといいます。

 多数派は、多数派だという事実のみでさらに多数派になります。人々が孤立を恐れるからです。
 集団極性化により、多数派の主張はより過激になります。

 これが全体主義の構造です。

現代日本の全体主義と民主的専制

 現代日本は、全体主義と無関係でしょうか? まず緊縮財政・全体主義が存在すると思います。

 トクヴィルによれば、民主主義でも専制は発生するそうです。多数の専制、民主的専制と言われます。
 日本に財政問題がないのは、自明です。
 しかし多くの日本国民は、その事実を知りません。有識者も、メディアも、政府すら「日本には財政問題がある」とプロパガンダするからです。

 「消費税増税は仕方がない」という「思考停止」から、大した反発もなく消費税は増税されました。緊縮財政・全体主義、もしくは民主的専制でしょう。

政治への諦観という空気と全体主義の予兆

 2019年の参議院選は、史上ワースト2位の低投票率でした。「どこに入れても変わらない」「政治なんか自分に関係ない」という諦観が、見て取れました。
 N国の立花孝志党首が当選したのも、日本国民の政治のお笑い化ではないでしょうか?
 「どうせ変わらないなら、面白いやつに入れたろ」というわけ。

 ナチスドイツ以前の政治家は、ヒトラーの台頭を笑っていたそうです。色物が来たぞ、と。

 日本の政治の空気は、かなり危うい予兆のように感じます。

改革主義・全体主義

 1990年代以降、日本では政治家が必ず「改革!」と叫びます。改革と言わずんば、政治家ではないという空気すら感じます。
 もっとも大抵は、ろくでもない改革ばかりです。

全体主義に陥らないために

 全体主義に陥らないためには、何が必要でしょう。

 全体主義における「強いリーダー」とは、大衆のペルソナ(仮面)にしか過ぎません。
 とすると国民が、思考停止に陥らないことが必要です。

 また少数派であろうとも「事実は事実。真実は真実」と声を上げなければなりません。

 オルテガは大衆人の野蛮性、原始性を批判しました。オルテガの言う貴族とは、アーレントの言う「思考停止しない人々」、パスカルの言う「考える葦である人間」です。
 大衆人は思考停止した人々です。アーレントは大衆人を「人間であることを拒絶した者」とすら言い放ちます。

 偉大な民主主義の観察者、トクヴィルは「民主主義から我々は、福利を引き出せていない」と書きました。アメリカのデモクラシーの序文です。

 どうすればよいのか? 考えてみてください。

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6 Comments
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プロフェッサーカオス
5 年 前

ちょうど俺も似たような記事を書いたところだったw
ファイトクラブに絡めて

N国が元気すぎてちょっと心配だな

収集がつかなくなる前に止めなければと思っているやつは多いみたいだが

阿吽
5 年 前

>第2次世界大戦時の日本が、全体主義かどうか? かなり疑義があると思います。

個人的には、全体主義国家だったと思っていますね・・。

まあ、なんの全体主義かと言われると、ちょっと、言葉につまってしまいますが・・・。

おまえは非国民か全体主義でしょうか?

それとも、おまえは敵性スパイか全体主義でしょうか?

ただ社会全体に、その社会全体に対する意見や反論を許さない空気が蔓延っている場合には、ほぼほぼ程度の差こそあれ、それは全体主義の特徴と言えるものなのではないかとは思います。

逆にまあ、行く所まで行ってしまって完膚なきまでに破滅したドイツ(ドイツ人によって運営されるドイツ政府の完全消滅)なんかには比べると、まあ、日本の全体主義は若干、気持ち、緩い全体主義だったのかもしれませんが・・。

(ソ連の全体主義も、戦勝国とはいえ、2000万人前後の国民を死なせていますので、まあ、碌なものでもないですけどね・・(全国民の14%弱がなくなられていますし、なかなかにもって地獄ですね・・))(余談ではありますけど、ほんと、ロシア帝国のままだったらどうなってたんだろう?でもやっぱりいずれは革命してましたかね?)

反論を許さない空気が、全体主義かとは思いますので、そう考えますと、戦前の日本も十二分に全体主義かとは思います。

(大日本帝国期でも、大正時代くらいまでは天皇機関説とか多少は好き勝手な言論ができていましたので、日中戦争以降、軍事中心になって戦死者も利権も膨大になったことから、空気読めが蔓延ったと言うのもあるかもしれませんね)

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>全体主義における「強いリーダー」とは、大衆のペルソナ(仮面)にしか過ぎません。

近年でもっともこれだったのが、小泉首相だと思いますね・・。(安倍総理も多少はそうですが、小泉総理にはこの才能においては若干負けると思います)(安倍総理に関しましては、小泉総理よりも政権運営能力は上だと思います(政治がうまいとは言っていない))

で、一番気になるのが・・、小泉進次郎さんですね・・。

21世紀の近衛文麿にならなければいいんですが・・・。

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>また少数派であろうとも「事実は事実。真実は真実」と声を上げなければなりません。

これがほんとに難しいんですよね・・・。

天邪鬼とも違う、本物でなければならないんでしょうけど・・・、これが難しい。

天邪鬼になるのはきっと簡単なんでしょうけど、それではダメですからねえ・・。

難しいんですよ。

恐怖を知らない勇気はただの蛮勇である、ですかね・・。

恐怖を知ったうえでの勇気は、これはほんとに覚悟がいるでしょうね。

阿吽
Reply to  高橋 聡
5 年 前

>「全体主義だったか?」と言われると「いやぁ……疑義もある」ですし、「全体主義じゃなかったか?」と言われると「いやぁ……当てはまる部分もある」という。
>では大衆人のペルソナ(仮面)である、カリスマ(ヒトラーやムッソリーニ、スターリン)がいたか? というと、これまた微妙な問題になっていくわけです。

うーん・・?

しいてペルソナ(仮面)をあげるとするならば、昭和天皇でしょうか?

ただ、これもヒトラーのような存在かと言いますとちょい微妙なので、あれですが・・・。

ヒトラーやムッソリーニにある程度のカリスマがあったことは認めますが、スターリンはどうでしょう?

スターリンは、個人的には、舞台装置(ロシアにおける共産主義)をうまく使いこなして統治、もしくは戦争をした人物という感じで、ヒトラーのように個人的に崇拝があったかというと、ちょっとあれかもとも・・・。(崇拝させたは、もしかしますとあるかもしれませんが・・)

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ヤンさんは、以前、新自由主義・全体主義も、リベラル・全体主義もあるというふうに言われましたが・・、ヒトラー(ペルソナ的存在)がいなければ、全体主義は成立しないとでも・・?

ペルソナ(仮面)も、もちろん全体主義は発生させるかとは思いますが・・、しかしてペルソナも所詮は、全体主義を発生させることにおいてはその装置の一部、もしくは1つ、という感じもしますが・・・、

全体主義を発生させるものは、宗教や、指導者や、その場の空気感とか、もしくはその複合的存在とか、いろいろあるとは思いますが・・、たとえば、山岳ベース事件なんかも、一種の全体主義かとは思います。(共産主義が一種の信仰のように作用しました)

明確な個人によるペルソナがなくても、全体主義は発生すると思いますし・・、もちろん、だからといって、ペルソナが明確に社会を煽動したケースの全体主義もあるかとは思いますが・・。

ヤンさんの全体主義に対する定義というのはどういうものなのでしょう。

ペルソナ付きの全体主義がパーフェクト全体主義ということでしょうか?

それ以外の全体主義は、中途半端全体主義?

明確なペルソナの存在しない、新自由主義・全体主義や、リベラル・全体主義などは本物の全体主義ではないという定義ですか?

ヤンさんの定義がそれなら、ヤンさんの発言も理解がしやすいのですが・・・。

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>人間って社会的生物ですから、本当に難しいんですよね。どうしても本能的に、多数派に行きたくなっちゃいます。

だから、山岳ベース事件もおこったのでしょうね・・。

空気が絶対的な正義になって、事実かどうか、正確かどうはかえりみられなくなってしまったのですから・・・。

いや、絶対的な正義がうまれてしまったからこそ、彼等彼女等に、それに対する反論が許されなくなったんでしょうかね・・・。だからこそ、人死にまでおこる・・・。

絶対的な正義とは、もはやそれだけで、ある種の信仰対象ですかね・・。

戦前の日本も、絶対的な正義が蔓延ってしまったからこそ、ああなってしまったのでしょうかね・・。

ドイツはただたんに、絶対的な正義というものを発生させる、もしくは発生させやすい舞台装置(この場合はヒトラー)が、それが目に見えやすかっただけでしょうかね。

日本史において、諸外国に比べて個人が崇拝対象になるという事績がすくなかったのは、天皇という神の子がいたから、なりずらかったんでしょうかね・・?

いや、ドイツ史においてもヒトラーほどの煽動者は1人ぐらいでしょうから、世界史で見ても、個人があそこまでのペルソナ(崇拝対象・もしくは絶対的正義)となった事例は比較的珍しいんでしょうけど・・。

まあ、ドイツだって全員が、ヒトラーを支持してたわけじゃあないでしょうけど、残りの人間も全員引きずられていってしまったわけですし・・。

空気にはなかなか勝てないもんです。

現代人が、安全な現代の立場からあれこれ言うのは簡単なんでしょうけどね・・・。