れいわ新選組の人気で、再び日本ではポピュリズムでは? という批判的意見も聞かれます。
日本ではポピュリズムは、もっぱら「衆愚政治」「扇動政治家」的な意味合いで使われます。思えば橋下徹と大阪維新も「ポピュリズム」として危惧され、山本太郎さんとれいわ新選組も、同じ言葉で警戒されます。
はたしてこれは、正しいのだろうか? と違和感を覚えざるを得ません。
ポピュリズムとは元来、人民主義を指します。詳しくはポピュリズムとは何か?意味と使われ方、問題点をわかりやすく解説をご覧ください。
本日は日本と世界で「ポピュリズムと批判される運動」の構造を、考察してみたいと思います。
先に結論を言えば「嘘によるポピュリズムは、批判されるべき」です。つまり「嘘」が批判されるべきなのであり、ポピュリズムそれ自体に批判要素はないとなります。
ポピュリズムとして批判される運動
アメリカのトランプ当選は、ポピュリズムと批判されました。またイギリスのブレグジット、欧州での反グローバリズム運動も、ポピュリズムとしてたびたび批判されます。
日本においては現在、山本太郎党首が率いるれいわ新選組が、もっぱらポピュリズムとして警戒されています。
また大阪維新の会と橋下徹も、過去にポピュリズムとして危惧されました。
ポピュリズムと批判される運動は、大別して2種類あるように思います。
- 民衆の不満を代弁する運動
- ワンフレーズ・ポリティクスなどに見られる、大衆扇動型の運動
なるほど、確かにどちらも「耳心地の良い」という点で、共通しています。しかし一方で、主張の中身が「嘘か事実か」という点で大きく異なるのではないでしょうか。
ナチス・ドイツとヒトラーとポピュリズムへの恐怖
ポピュリズムの語源は、アメリカの農民たちの不満を代表したポピュリズム党といわれます。
しかし歴史的にもっぱら語られるのは、第二次世界大戦前のファシズムでしょう。ヒトラーやムッソリーニです。
なぜかレーニンは、ポピュリズムの例としては語られません。
ポピュリズムへの批判とは、「最終的には大衆が、暴走する”かもしれない”」という恐怖から来ているのではないか? と思われます。
オルテガのいう大衆と貴族
オルテガは大衆論を語るときに、欠かせない人物です。オルテガがいうには、大衆と貴族が存在するそうです。
大衆とは?
大衆とはなにか? 私なりに端的に述べれば「知性への敬意を失った人々」です。
一般論的に述べるなら「責任を取らず、権利のみを声高に主張し、自身を知的と思い込み、匿名性に甘える『甘やかされたお坊ちゃん』」といえます。
日本でも好例があります。
現在、小泉政権は批判的に評価されることが多い。「自民党をぶっ潰す!」といって、日本をぶっ潰したからです。
ところが、小泉政権より過激な安倍政権の支持率は、安定しています。
道理が通らないのですが、それが大衆というものです。論理があるのではなく「批判したいものを批判し、肯定したいものを肯定する」のです。
論理は「あとから、”知的な自分が”こねくり回して作る」のです。
オルテガのいう貴族とは?
大衆の反対概念が貴族です。これは形而上学の概念であり、哲学的概念です。身分制度を指してはいません。
大衆が甘やかされたお坊ちゃんとするなら、貴族はストイックな修行僧と表現できると思います。
自身を甘やかさず、より良い社会になるために貢献する人たち、といえます。
貴族的でなくなった世界のエリートと呼ばれる人たちと、大衆の数の暴力
大衆は知性への敬意を忘れた人々です。したがって知性は、大衆に不都合であるときは数で攻撃されます。
とすれば、いわゆるエリートたちはどのような行動になるか? 3種類ほど考えられます。
- 大衆を「(利己的目的へ)うまく動かす」ことに力を注ぐ
- 黙して語らず、自己の知性のみ探求する
- 事実や真実を大衆に訴え続ける
橋下徹は1.に分類されるでしょう。ヒトラーも、最終的な評価は1.だと思われます。
2.は一番多いのでは? と思います。知性を裏切らず、大衆とも衝突しないことを選べば2.になります。
3.が一番困難であり、大衆の数の暴力にさらされる危険性も大きいでしょう。
仮に1.を「扇動型ポピュリズム」、3.を「真実型ポピュリズム」と表現します。
自身の社会的地位や利己心を満たすためには、扇動型ポピュリズムになるでしょう。
経済学が退化し、グローバリズムによる大資本への利益誘導のみに固執するのも、扇動型ポピュリズムといえます。
党利党略のみで政治主張をするのも、扇動型ポピュリズムでしょう。
これではエリートは、とても貴族的とはいえません。
ポピュリズムがポピュリズムを警戒する
グローバリズムも一種の、ポピュリズムといえます。2000年代中盤までは「グローバリズムは不可避な流れ」「グローバリズムは避けられないのだから、日本もそうしなければならない!」という言説がよく聞こえてきました。
実際に1990年代から、日本は政治改革、行政改革、緊縮財政、構造改革などを「国民が」支持してきたのです。
結果として、日本は貧困化しました。
利益と得たのはグローバル資本や、大資本だけでしょう。
扇動型ポピュリズムに、いいようにやられた好例です。
国民生活が苦しくなってくると、れいわ新選組や山本太郎さんのような「庶民目線型」の政党が出現しました。
もうおわかりでしょう。なぜれいわ新選組が、ポピュリズムとして警戒されるのか。
扇動型ポピュリズムにとって、不都合だからではないでしょうか。
グローバリズム・ポピュリズムの最果てにあったもの
かつての日本では、人生にテンプレートが示されていました。「一生懸命に働けば、豊かになれる――共同体がそれを、保証してくれている」と。
現在、そのテンプレートは融解してます。
欧州の反グローバリズム運動、トランプの出現、れいわ新選組の人気は「テンプレートが消えたことへの不安」であり、一種の防御反応です。
エマニュエル・トッドも「我々はナショナリズムを窓から捨てたと思っていたら、玄関から戻ってきた」と評しています。
グローバリズム・ポピュリズムの最果てにあったもの。それもまた、ポピュリズムなのです。
ポピュリズムそのものに、良いも悪いもない
民主主義国家において、国民主権は否定できません。であれば、人民主義――ポピュリズムの日本語訳――もまた、否定はされません。
ポピュリズムという”現象そのもの”には、善悪はないのです。向かう方向によって、善悪が決定されるだけのことです。
したがって「ポピュリズムだから批判する」というのは、正しくありません。「今回のポピュリズムは、破滅的な結果をもたらすだろう」として、批判せねばならないのです。
扇動型ポピュリズムは「大衆と化したエリートの扇動」です。そこに知性や真実がないからこそ、批判されるべきなのです。
もう少し端的にいえば「嘘」が批判されるべきなのです。
「2019/08/18 9:59」にメールを送らせてもらっていますが、確認はできておりますでしょうか? よろしければ再送させてもらいますが……。
確認いたしました~。添付も後ほど、確認いたします。
頑張りまっする!!
>道理が通らないのですが、それが大衆というものです。論理があるのではなく「批判したいものを批判し、肯定したいものを肯定する」のです。
>論理は「あとから、”知的な自分が”こねくり回して作る」のです。
いやまったくその通りで・・。草生えますよ・・σ(^^;)
,
全体主義的になってしまったら、ポピュリズムもアウトだと思いますね・・。
トランプの誕生や、ブレグジットやれいわ新選組の誕生は、一般民衆の防御反応かもしれませんが・・、ナチスドイツや戦前の日本、もしくはソ連なんかは全体主義的でした。
どう全体的だったかと言いますと・・、パワーワードで国民の言論が委縮したからです。
大日本帝国なら非国民、ナチスドイツならユダヤ人が絶対悪という概念、ソ連なら資本主義の犬・・てな所でしょうか。
上記国家では、上記のように大衆から認定されるということは、その個人は実質社会的信用を一切失うに等しい行為でした。
結果として国民、ひいては国家の思考は硬直化し、最終的には滅びたと考えます。
パワーワードが世間を支配するようになったとき、その国家はポピュリズムの暴走として滅びると思います。
大日本帝国もナチスもソ連も、3分の2ぐらいの人がパワーワードを支持していたでしょうから・・、十二分にこれも人民主義の一種と呼べると思います。
1つのパワーワードが世論を支配する時、その国は、場合によっては滅びの道を進むのだと思います。
『1、大衆を「(利己的目的へ)うまく動かす」ことに力を注ぐ』、もちろん左記にしるしましたヤンさんの書かれた内容についてのその努力(?)を政治家もするのでしょうが・・、そういう意味では、全体主義(つまりはやばい方に分類されるポピュリズム、か)とは政治家と国民の合作とも、ある程度は言えるのかもしれませんね・・。
パワーワードというキーワードは、非常に大切ですよね。
「平和」「平等」「愛国心」等々。議論の邪魔にしか、なりませんものね。
言論空間の自由って、本当に大事だと思います。
でも1つ思うところがあるのです。
現在の「誰でも発言し、横並びになるネットの言論空間」の功罪は、論じられて然るべきではないか? と思うのです。
※別に悪いことだけではないです。現状を把握するという意味です。
ちと、上記の命題も論じてみようかなと……思うのですが、多岐にわたり難しそうでもあります(笑)