リカードの比較優位論、主流派経済学の復習と反論-グローバリズムとは何か?

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リカードの比較優位論の復習と問題点

 原点に戻って、主流派経済学の問題点を指摘し、復習するというテーマで書いていきたいと思います。

 リカードの比較優位論とは何か? 経済学の教科書ではよく、毛織物とワインの例で説明されます。箇条書きで理解しやすく説明してみます。

  1. A国は毛織物の生産性が高い、B国はワインの生産性が高い
  2. 両国が生産性の高い生産物に特化すれば、全体での生産量が増える
  3. したがって自由貿易で、生産性の高いものに特化したほうが豊かになれる

 上記がリカードの比較優位論の概要です。非常にシンプルで簡潔ゆえに、主流派経済学では上記の理論を信奉して、自由貿易は善であるということを主張します。本当にそうでしょうか?

 主流派経済学の理論とは、すべて”効率化”をもとにしています。したがって安全保障などの”冗長化”は考慮されておりません。以下では、リカードの比較優位論から主流派経済学の弱点、欠点を指摘していきたいと思います。

主流派経済学――新古典派経済学――の欠点と問題点

 ワルラスの法則やセーの法則、リカードの比較優位論、ヘクシャー=オリーン・モデル等々、主流派経済学の根源を形成する理論がいくつかあります。いちいち、この理論のここがと、細かい指摘をすることは避けます。

 まず主流派経済学の欠点の1つ目は、自然科学を装っていることにあります。科学には大きく分けて、自然科学――物理学や数学等々――と、社会科学――経済学や土木建築学、政治学や地政学、哲学等々――があります。

 経済とは人の営みですから、経済学とは本来は社会科学に分類されます。自然科学でも違う分野の知見が必要であったりすることが多々あるそうです。とすれば、社会科学ではさらに多くの違う分野の知見が必要なはずです。

 しかし……主流派経済学は有り体に言えば”専門バカ”になってしまったのでしょう。自然科学へのあこがれが強く、いかなるモデルも数式で表現しようとするのです。しかし数式に人の営みが表現できるでしょうか? 経済学や社会科学は”社会”を解釈して、学ぶ学問です。ある意味で複雑系になってしまうのです。

 ――つまり、ジレンマやトリレンマといったものが発生し、数式のごとく矛盾なく表現できるようなものではない、ということです。

 主流派経済学の2つ目の欠点は、その貨幣観にあります。詳しい説明は避けますが、現在の主流派経済学の想定している貨幣観とは”物々交換”なのです。これを商品貨幣論といいます。

 現在は経済学の中でも、MMT――現代貨幣理論――が議論されており、表券主義的貨幣観がようやく議論の俎上に登ってきました。もっとも、アメリカでも非主流派ですし、日本に至ってはMMTを議論した著作は今の所「富国と強兵」しかないようです。

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 3つ目の問題点ですが、主流派経済学は演繹的に考えればすべてが解明できるはず、と考えているフシがあること。過度の合理主義に陥っているとみなして良いと思います。つまり全体を俯瞰できずに、あちこちがつぎはぎだらけになっている、というわけです。

 その証左として1つの例を引きましょう。2003年に主流派経済学者のルーカスは、「もはや経済学はマクロな問題をすべて解決した」と勝利宣言をしました。そのたった5年後に、リーマン・ショックという”マクロな金融危機”が引き起こされました。

 余談ですがリーマン・ショックが起こった際に、イギリスの女王陛下が経済学者たちを前に質問をしたのだそうです。「なぜこの危機を予測できなかったのか?」と。経済学者たちは一様に、沈黙するしかなかったのだそうです。

グローバリズムの正体とはなにか?

 グローバリズムとは日本語に訳せば地球主義となります。左派の唱える地球市民と、驚くほど似通っているではありませんか。余談ですが――欧州やアメリカの左派は地球市民的発想はやめたようですし、日本でも最近は薔薇マークキャンペーンに見られるように、左派が財政出動を主張する場面の増えてきました。

 閑話休題。グローバリズムとはヒト・モノ・カネが自由に行き交う、という定義です。その”自由”を可能にするためには規制緩和、自由貿易、緊縮財政が必ずセットになります。

 グローバリズムと新自由主義はまるで同じものであるかのように語られますが、厳密に言えば異なります。なぜならば……例えばEU内で新自由主義を採用し、EU以外を排他的に扱うとすると、それはグローバリズムではありませんが、しかし新自由主義ではあるのです。

 資本主義とはレッセ・フェール――フランス語でなすに任せよ――な状態では、必ず格差を生み出し、成長を鈍化させ、最後には資本主義自身によって自滅していきます。グローバリズムや新自由主義とは、その1つの形態と表現可能でしょう。

 資本主義を経済成長に導くためには、必ず政治の力、つまり規制や保護が必要になります。財政出動も一種の保護政策と言えます。逆説的に、グローバリズムとは政治の力を削ぐ経済主義と表現可能でしょう。

 この証拠はイギリスのブレグジットが、国民投票によって可決されたのにもかかわらず、ハードランディングとなりそうな現実から明らかです。つまり民主主義がグローバリズムによって、無力化されているのです。

大衆化しないために必要なこと

 最後に大衆化について論じておきます。ネトウヨという運動がありますが、最初期はそれなりに知的運動であったのです。2000年代初頭の頃でしょうか? しかし現在のネトウヨ――有識者も含め――の知的劣化はもはや論じるまでもないでしょう。

 これは大衆化した、ということなのだろうと私は判断しています。

 大衆とはオルテガの書いた言葉でMass Manと表現されました。Massとは大量のという意味だそうです。イメージで言えば、風に吹かれてサラサラと飛んでいく砂漠の砂が大衆と言えます。

 そうならないためにはどうしたら良いのか? 常に自己研鑽をつんで、大衆人にならないための努力が必要なのでしょう。そして……反グローバリズム運動も、広まるにつれて大衆化していくことは、ほとんど避けがたいかも知れません。

 それでも、反グローバリズムや反新自由主義の運動が広まることは、現在よりはマシな状況を作ることだと思います。

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2 Comments
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阿吽
5 年 前

>大衆化しないために必要なこと

自己矛盾を発生させないことが、肝要かと思います。

そしてそれを容認することをしない・・というか・・。

橋下さんなんかはそうですけど、「これが最後」と言いながら、大阪都構想を進めるわけです。

本来でしたら橋下さんは、大阪都構想を推し進めようとしている大阪維新に対して、「あの時、これが最後と約束したんだから、大阪都構想の話を蒸し返すのはダメだ」・・と言わなければならないのです。

しかし、橋下さんは言わない。

もしくは、「あの時、確かにもうやらないとは言いましたけど、ごめんなさい。どうかもう一度だけチャンスを下さい」と、有権者に対してちゃんとお詫びをして、その上で、改めて大阪都構想のお願いをしなければならないのです。

しかし、それもしていない。(してないと思ったんですけどね・・)

謝罪するべきところ(もしくは訂正するべきところ)でしないということで筋も通さない・・。結果的に過去の自身の言葉(「もうこれで最後」)に対して嘘をつくことになってしまう・・。

嘘をつき、筋を通さなくなった段階で、大衆的になってしまうのでしょう。

そういう意味では、桜井誠さんなんかは、支持するしないの問題とは別の話ではありあますが・・、嫌韓と言うものに筋を通しておられます。

彼がそこらへんの有象無象のネット右翼と一線を画するのは、そのへんが理由でしょう。

筋も通さず嘘つきになった段階で・・、大衆的なものとなってしまうのではないでしょうか。

ですので、大衆化しないために必要なことというのは・・、筋を通して嘘をつかないこと・・、でしょうかね・・。(筋を通すということは、もちろん何か間違いがあった場合はその間違いを認めないというわけではありません。その間違いを真摯に認め、真摯に訂正するということ、です。)