妖怪大戦争(2005)が超ナショナリズム映画な件-妖怪とナショナリズムと映画


妖怪大戦争という映画

 AGB速報の立ち上げも終わり、本業の仕事も一段落。小説も6話まで書き終わり、昨日は晴れてお酒を煽りながら映画を見ておりました。dTVというドコモのサイトでございます。そこで見ましたのが「妖怪大戦争(2005年版)」なのですが、非常に面白い映画でした。

 妖怪といえば水木しげる、です。当然ながら水木しげるさんがプロデュースした映画(確か字幕ではそうでした)だそうで、主人公の年齢は明らかにされておりませんけども、多分小学5年生?くらいの男の子じゃないでしょうか。非常に顔の整った少年が主人公です。端的にあらすじだけ書いておきます。

妖怪大戦争2005年版あらすじ

 主人公の小学生の親は離婚し、田舎のおじいちゃんの家で暮らしております。その村なのか町なのか?では麒麟送児(誤表記)という伝説が存在します。 麒麟送児は昔、大天狗を従えたという伝説です。今調べましたら麒麟送子だそうです。Wikiによりますと。

 主人公の稲生タダシは、夏のまつりで麒麟送子に選ばれます。選び方は獅子舞に噛まれる、というものです。ところがある日、家のおじいちゃんが置き手紙をしておりました。「天狗山に行ってくる、来てくれ」と。タダシは天狗山に向かうと、そこには様々な妖異が待ち受け、最後にはおじいちゃんの「助けてくれー! ターダーシー!」という声まで。

 じつはこれ、麒麟送子を試験する妖怪たちのいたずらだったというわけ。こうしてタダシは麒麟送子として大天狗にも認められてめでたし、めでたしとは行かないわけで……。

 妖怪たちは古風な日本の妖怪なのですが、敵方の妖怪は西洋風で歯車や機械になっていたり。そんな復讐西洋妖怪的なやつらが、大天狗の住む場所を襲撃してきます。タダシが試験の途中で仲良くなったすねこすりは、大天狗から授かった刀を必死に抜こうとしました。大天狗も復讐西洋機械妖怪に対して反撃します。タダシもすねこすりの行動を見て、刀を必死に取りに行きます。

 しかしあえなく刀は折れ、大天狗も力及ばず攫われ……と。最後はこの復讐西洋妖怪的なボスは東京で悪さをして、それに対してタダシと数人の妖怪たちが立ち向かいます。中に小豆洗いがいるのはかなり笑いましたが(笑)あと河童は案外強い(笑)

 ところがこの東京の騒ぎは日本中の妖怪に”まつり”として噂が広まり、「何か東京で、でっかいまつりがあるらしい」とのことで、日本中の妖怪が最後は参加して復讐西洋妖怪を倒すわけです。ちなみに稲生タダシは、幼き頃の神木隆之介さんが演じておりまして、まさに「神子役!!!」であります。なにあれ、すげーよ。演技、表現、表情、ともに最高すぎます。

妖怪大戦争は1968年がオリジナルらしい

 ちなみにWikiによると、妖怪大戦争のオリジナルは1968年のものだそうで、2005年版はリメイク版だそうです。ここ重要。

西洋かぶれ妖怪と古来の日本妖怪、そして稲生タダシという”名前”

 ラスボスは西洋かぶれのもともと日本の妖怪。ラスボスに従う手下たちは、溶鉱炉みたいなところに入れられて”生まれ変わった”、元日本の妖怪たちです。手下たちは心もなく、ただ凶暴にラスボスに従うのですね。見た目はマジで機械。

 さてこの映画、何を描いたのか? もう勘の良い方ならおわかりでしょう。ラスボスの西洋かぶれ妖怪、そしてその手下の機械化され心を失った妖怪たちはグローバリズムと合理的経済人、原子論的個人を描き、日本古来の妖怪たちは日本や伝統、文化、ナショナリズムを描いているのです。

 なにせ主人公の少年の名前が”稲生タダシ”ですよ? 稲に生きるのが正しい、つまり瑞穂の国といいたいのではないですか?

 私、大天狗と復讐西洋機械化妖怪が戦うのを見て「お、大天狗! がんばれ! まけるな!」と思わず泣いてしまいました。あのシーンは多分、大東亜戦争(太平洋戦争)を表現していたのではないか? と思います。ま、泣いてしまったのは酒が入っていたせいもあるのでしょう。お恥ずかしい限りです。

 しかし大天狗すら手に負えない手下の復讐西洋機械化妖怪を、稲生タダシが伝説の刀でばったばったと倒していく様は、見ていて痛快。すねかじりが最後まで抵抗して、ラスボスの手下に溶鉱炉っぽいものに入れられてされてしまい、稲生タダシの前に出てきたときのシーンも感動モノです。神演技、神子役とだけ言っておきます。

 さて、この映画。もはやここまで書けば、確実に「ナショナリズムと伝統の日本」を描き、合理的経済人や原子論的個人、西洋への反発と解釈できる内容とご理解いただけると思います。

 ちなみに1968年版は、古代バビロニアの妖怪に、日本妖怪が立ち向かうという構成になっておりまして、やはり「西洋vs日本」の構図なのですね。し・か・し! ですよ? 1968年版が西洋に立ち向かう構図なのに対して、2005年版は最後はまつりで倒すという構図です。 1968年版では「真正面から立ち向かう」に対して、2005年版では「まつりをしてたら、麒麟送子が倒してくれた。よくわからんけど、よかったな~」なのです!

 これってつまり? ナショナリズムが日本からどんどん失われている、ということをこの映画は示唆しているのではないか? と解釈できます。そして映画やアニメ、漫画はその時代の心象風景を明確にえぐり出す、もしくは反映することで大ヒットするのです。

 1968年という戦後20年の時期と、2005年という戦後60年ほどの時期。こうして映画によって比べてみるのもまた興味深くありませんか? ナショナリズムはどこに行ったのか? ぜひとも「妖怪大戦争」をご覧いただき、考えみてください。

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