必死の言論の果てにあるもの-イデオロギーと大衆化と民主主義と独裁制の衝突と民主制喪失【旧ブログから再掲】


大衆と大衆化社会という怪物

 「大衆の反逆」という著作を書いたオルテガは、大衆(大衆人 Mass Man)の「無謬性」「根拠なき世論」「無知性」「同一性」を指摘しました。端的にいえば大衆人は「他と一緒という安心感」が大事であり、ゆえに「特別であろうとはしない」ので「知性を磨く必要もない」のであり、一方で「自分たちが支配的立場にいる」と思い、さらには「無謬である(間違っていない)」とすら思っているとまとめられるかと思います。

 一方で「無謬であると思っているにもかかわらず、前言を翻すこともいとわない」という性質もあります。小泉政権、民主党政権などでの世論の熱狂を見ればご理解いただけるでしょう。その後に、世論は「小泉政権は間違っていた」とか「民主党政権は間違っていた」とか平気で「みんなと同じ意見を述べる」のです。

 そこに根拠なんぞありません。

 また小泉政権を間違っていると評しているのに、同じ路線の安倍政権の支持率が高いこともまた「知性や歴史、根拠による判断」ではなく、「みんなが支持しているから」という要素が見て取れます。

 もちろん何かが起これば「誰かのせいにする」わけです。公務員、土建業者、政治家、左翼は右翼に、右翼は左翼に、外国、知識人、マスメディア等々。だからこそ大衆は「無謬」なのです。

必死の言論は消費され尽くし、力尽きるのかもしれない

 現代の大衆化社会においては言論、情報とは「ただで手に入るもの」であり「溢れているもの」です。ほとんどの大衆人は自ら検証をしたり、知識をつけて論じたりはしません。そんなことをすれば「周りと違う自分」「少数者」になり「自分が排斥されるじゃないかっ!」というわけです。

 つまり情報や言論へのタダ乗りが当たり前、というわけです。

 情報や言論は確かに、一部の人々に作用して「あ、なるほどこうだったのか!」となる作用もありうるでしょう。果たしてそれは、言論が大衆人たちに消費され尽くす前に起こるのか?どうか?私には分かりません。

 ただ、消費され尽くす前にそのような成果が現れると信じるのみです。自身の活力を信じて。

専門分野の細分化がさらなる大衆化を招く

 現代社会は複雑ですから、社会科学1つとっても細分化していくのは避けがたいのは理解できます。その分野で高名な学者が、異なる分野では無知であるというのはよくある話です。

 そうなってくると「全体論的、巨視的視点での解釈」をする人がどんどんいなくなり、これまた大衆人たちの視野を狭め、都合の良い情報だけをあさってくる「ネトウヨ」のような存在の出来上がりとなるわけです。

 余談ですが視野が狭いのでいわゆる保守と呼ばれるビジネス保守の方々からすると、リピート率が高いというビジネス的利点があるのですけれども。

 これが行き過ぎるとソーシャルプロテクションなり、反対側のイデオロギーからの猛反発にあって炎上し、新潮45のように破綻を迎えることもあります。

 またネトウヨ雑誌や本が「商売になる」ということは、ネトウヨ層はある程度購買力のある中年以上となるようです。

 閑話休題。

 こういった意味合いで例えば藤井聡さん、中野剛志さん、柴山桂太さん、三橋貴明さん等々の「巨視的視点から論評できる存在」というのは貴重です。もちろんながら、主張や行動への賛否などは当然ありうるでしょうけれども。

シュペングラーの言う皇帝の時代は到来するのか?

 中野剛志さんの著作「日本の没落 (幻冬舎新書)」で解説されている、「西洋の没落 I (中公クラシックス)」を著したシュペングラーは、間もなく経済と政治の一大決戦が行われ、皇帝の時代が到来すると予測しました。

 皇帝とは「身分」ですから、皇帝の時代とは身分制度のある時代ということにもなろうかと思います。

 歴史をよくよく考えてみれば、身分制度のない近代という時代こそがイレギュラーであった可能性もありうるのです。そしてこれは、身分制度によって大衆は消滅するということにも繋がります。大衆とは近代の「誰もが平等で」という思想のもとに生まれたものなのですから。

 シュペングラーの予測が当たるのかどうか?は私ごときには分かりませんけれども、民主主義の現代が貴重だと思うのであれば、大衆人から抜け出す努力が、日本国民に必要な努力なのではないか?と思います。

 大衆人から抜け出すには、絶え間ない勉学と努力、自己研鑽が必要になるようです。要するにニーチェの言うところの超人、民主主義の言うところの「賢明な市民」、オルテガの言うところ「精神的貴族」になる必要があるというわけです。

 それができなければ、シュペングラーの言う「皇帝の時代」、梅棹忠夫の言う「日本の凋落」は必然となり、中国やロシアと衝突すらできず属国となり、現代日本の民主主義すらも喪失するかもしれません。

 あなたは、どうしますか?

 私はまだ抗ってみます。無力感や、認知欲求、孤独感に負けず、世間と異なろうとも。

P.S

 あれかもしれん、ゲイやから「異なる」ということに耐性が強いのかも(笑)しょせん、生きて死ぬだけが人生。なら多少でも、いい影響を及ぼせるようにがんばらんと、ですね。どこで力尽きるのか?もしくは力尽きないのか?日和るのか?日和らないのか?分かりませんけども、周りの人間を大事にして、頑張って生きて、そうやって死ねたらそれでええのかもしれません。

 それこそが「ほんとうの自由」なのかもしれませんね。

コメントを残す

  Subscribe  
更新通知を受け取る »

当ブログは2018年12月に移転しました。旧ブログはこちら