なぜ財政出動が必要なのかの理由-求心力と遠心力と制度経済論・現代貨幣論の関係性

非常に理解しやすい画像です。これは良い。

グローバリズムは遠心力を働かせる

 今日は財政出動がなぜ必要なのか?について論じていこうと思います。そのためには現在世界を取り巻くグローバリズムとはどのようなものか?について定義をしなければならないでしょう。また本稿は現代貨幣論の概念も入ってきますので、現代貨幣論がお嫌いな方はご承知ください。

 グローバリズムとは「ヒト・モノ・カネが自由に国境を超えて動くこと」としばしば定義されますし、まさしくその通りでしょう。上記の定義を本稿に合わせて言い換えると、「グローバリズムとは国家や政府の求心力を削ぎ落とし、個人や企業に遠心力を加えるもの」と言えます。つまり分解や遠心力がグローバリズムでは常に働くと言えましょう。この定義は非常に重要です。だからこそグローバリズムは原子論的個人を生み出すわけです。

制度とは結合の運動-そして現代貨幣論のエッセンス

 先日寄稿しました進撃の庶民の保守思想とプラグマティズムと資本主義-現代社会における保守思想の困難性【ヤンの字雷】にて詳しく論じておりますが、制度とは分業化の進んだ資本主義社会での国民の結合であり、規制緩和とは分解と解釈可能です。このことは上記記事をご参照ください。

 さて、制度には何が含まれるのか?法律、そしてそれを可能たらしめる警察などの実際的な権力や暴力、さらには法定流通貨幣(通貨)、銀行制度などもすべて「制度」として捉えることが可能です。制度なき国家に、ナショナリズムなどありようもない、というのは至極常識的な話です。逆にグローバリズムは規制緩和・構造改革などで「制度を緩める」からこそ遠心力が働くのです。制度とはうまく作れば、有機的に組織や共同体の求心力を高め、それが継続するとナショナリズム(共同体意識)に発展していきます。

 上述した寄稿でもお話しましたけれども、社則のない企業は存在しません。また部署等によって様々なルールや暗黙の了解が存在するでしょう。それらは組織や共同体をうまく機能させるために存在したというわけです。(実際にうまく機能するのかどうか?はここでは議論していません)

現代貨幣論のエッセンス

 余談ですが、アバ・ラーナーの機能的財政論とはフリードリヒ・リストの制度経済論を土台にしている、と解釈可能です。なぜならば、制度がなければ機能もまた失われるのですから。法定通貨もまた「制度の1つ」であり、これを「今まで使い続けたのだから、これからも制度としてなくなっても、慣習として使い続けるだろう」という解釈は甘いと言わざるを得ません。1990年代に日本式経営をあっさりと捨てたのをお忘れなのか?と。慣習や習俗とは制度によって、時にはあっさりと変えられてしまうのです。

 ちなみに銀行法で定められている制度によって、銀行は信用創造が可能です。法定預金準備高がわずかしかいらないのが、その証明でありましょう。ちなみに・・・銀行以外、例えば私でも信用創造は”可能”です。どのような方法で?極端な例ですが宗教をおこして信者を集め、そこに「高橋聡貨幣」と使わせるというアイディアはいかがでしょうか?私は法定通貨がなくても、宗教団体内ではいくらでも「お金」をプリントアウトするだけで、様々なサービスや財を購入できます。仮想通貨(貨幣という表現が正しい)と同じ仕組みですね(笑)

 上記の場合、制度として国家という最大の権能から守られてはいませんので、容易に破綻します。銀行は国家によって制度として、一定程度守られているので信用ヒエラルキーとして上位に位置するわけです。(国家が当然ながら最上位です)

 上述した「宗教をおこして」という例は、どのように生じたのか?「教祖としての信用」から生じているのは明白でしょう。教祖とは労働か?否でしょう。生産か?これも否です。しかし上述の例では「高橋聡貨幣」は生じるのです。つまり貨幣が生じるのには信用があればよいと解釈できます。その信用のいち要素が労働、生産だというわけで、他の要素もあるわけですね。それが制度によって信用を担保されている銀行というわけです。したがって銀行は又貸しではなく、貨幣創造をしていると解釈可能です。

デフレとは求心力が過小になった状態-だから財政出動が必要

 制度経済論的に話を進めてまいりましたけども、デフレとはいかなる現象か?その本質はどこにあるのか?を考えますと、端的に言えば国家の求心力が過小になった状態と言えます。つまり制度が緩んで自由競争が闊達になり、それが勝ち負けを生み出して、そして国家への忠義や共同体意識、愛着が薄くなった状態です。それがデフレなのです。

 それはそうでしょう。負け組のまま放置されていて、その組織や共同体に対して愛着が湧くわけがありません。一生懸命働いても、ブラック企業はブラック企業のままなのです。働くことは美徳ですが、ブラック企業で使い潰されることは断じて美徳ではありません。それが国家単位になったのがデフレという現象なのです。

 つまりはデフレの場合、福利厚生の向上に勤めるため、当然ながら通貨を市場に供給しなければなりません。それが財政出動というわけです。

 逆にインフレはどうなんだ?という反論がありそうですが、デフレ(供給>需要)の状態と、インフレ(供給<需要)の状態はやや趣が異なります。

 規制緩和や構造改革は端的に言えば、国家が国民に過重労働を押し付けるための政策と言えます。「安く、多く働け」というわけ。福利厚生の真逆ですね。つまり過剰なインフレになれば、それは供給が少ないのだから、さらなる労働を国民に押し付けることが必要となります。つまり求心力(国家への依存)を弱め、自立を促す、ないし清貧を求める政策が必要となるわけです。

※過剰なインフレという状況想定を、しっかりと認識してください。通常のインフレは資本主義社会としては当たり前です。

制度経済論と現代貨幣論

 制度経済論と現代貨幣論はどちらが上位なのか?などという面白くない反論があろうかと思いますが、完全に制度経済論が土台構造であると断定をしておきます。なぜならば現代貨幣論の論じるところは通貨であり、通貨とは制度なのですから。人間のいるところには何らかの制度やルール、マナーが生じるのは遥か太古から変わらぬ事実です。そしてこの、制度の適用範囲を広げた結果として出てきたのが貨幣なるものでしょう。

 つまり文明と呼ばれる規模では必ず、貨幣は”発明”されます。(縄文等々)文化・少数民族等の場合は発明されないことが多いと言えます。しかし制度は後者でも生じるわけですから、やはり制度経済論が土台であり、下部構造であると言えるでしょう。

最後に

 経済論は250年前から様々な偉人や、我々よりよほど頭の良い人たちが論じております。哲学において「俺はソクラテスを超える!」などといえば、失笑されるのがオチでしょう。2000年前のソクラテスですら、未だに最先端だという”事実”を忘れるべきではありません。

 すなわち経済論を語るのならば、まずは先人を知ることから始めるべきです。制度は様々な歴史から学べますし、貨幣論についても200年前にすでに議論され尽くしている、というのが私の見解です。そして貨幣論に対しては二大潮流が生じ、それ以外はほとんどありえないのが実情でしょう。(共産主義とマルクス除く。理論は悪くない、解釈は悪くないという話はあるかもしれませんが、その理論から生まれたのがマルスクの処方箋という事実を忘れるべきではないでしょう。)

 自然科学と社会科学は「別物」です。経済論もまた社会科学ですので、自然科学とは別物と考えるべきでしょう。つまり「合理のみで割り切れるものではない」のです。むしろ社会科学では「現実の構造はこうなっている」という解釈を重視します。つまり経済論では・・・その解釈とは新自由主義的解釈か、もしくはケインズ的解釈と言えます。

 これは貨幣論においては、商品貨幣論か表券主義かという違いになることでしょう。このことは中野剛志さんの富国と強兵にて詳しいです。また佐藤健志さんの平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路を読んで見れば、これまた信用(という合理的でないもの?)に対する見解が第二章で書かれています。

 この「観念、捉え方」を理解できなければ、現代貨幣論の論争は続くことでしょう。ついでに言えば、財政出動問題も「観念、捉え方」の問題と言えます。プラグマティックに考えるのならば・・・さてこれをどう変えるのか?が我々の課題なのかもしれません。

P.S

 うずらさんのブログで、現代貨幣論に対する質問が箇条書きで載っておりましたので、答えたく存じます。

①貨幣という負債の清算(返済)義務を負う者は誰なのか

②負債の清算にあたり、持ち込まれた貨幣の対価として何を以って支払うのか

③負債の清算期限は何時なのか

お金はお金(うずらさんのブログより)

 1)ですが国家と通貨は負債ではあっても、債務ではない。が答えになります。以下、負債と債務の言葉の定義をググって引用します。

負債:

他から金銭や物資を借りること。その借りたもの。また、債務。

債務:

特定の人に対して金銭を払ったり物を渡したりすべき法律上の義務。多く、借金を返すべき義務。 「―を負う」

 負債は個人・企業(国家の法律によって律せられる)にとっては「負債=債務」ですが、法律を作るのは国家です。したがって国家の通貨、貨幣を論じる場合には負債と債務は別の意味になります。負債は単にバランスシート上でストックに計上されるものであり、債務性は「存在しない」のです。

 したがって2)以降の精算は想定しませんし、精算期限も想定しなくて良いことになります。(すべて自国通貨を想定しています。ちなみに、国債も償還期限が定められておりますけど、実質的には通貨を発行できるので「債務性はない」と言えます。

 債務とは債(を返すのに)務めると書きますが、負債とは債を請け負うと書きます。以上が端的に専門用語を使わずに書きました回答となります。参考になれば幸いです。

※ちなみにうずらさんが昔書いていた、「お金(法定流通貨幣)に負債性はない(厳密には債務性という表現が性格ですが)」は非常に正しい論考になります。現代貨幣論も通貨の債務性を強調するものではないのです。・・・事実として「通貨とは(特殊な)負債である」とは書かざるを得ませんが(汗)

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